ズコウスキーの引退からもう半年くらい経つんですね
スケートの、特にシングルってたった半年でいろんなものが変わっちゃう
下剋上によって大きく表彰台メンバーが入れ替わったり、ルールが変わったり、
ニューフェイスがでてきたり、誰かがいなくなったり・・・
選手生命も短いスポーツだけど、それはその分その後の人生も他のスポーツと比べて長いということだ
志半ばで引退した選手たちが新しいステージでうまくいくように願うばかりです
さて、ズコウスキーですが、引退後の記事が出てました
スケアメの最中でなかなか書けなかったけど訳のせるので興味のある人はどうぞ
ほんとに適当です
Zukowski begins new life chapter
トールサイズのコーヒーカップとたくさんの教科書を小脇に抱えてLiacouras Walkを歩くクリスティン・ズコウスキーは、テンプル大の学生らしく見える。
5フィート1インチの彼女の歩みは小さなものだが確かな優美さと、笑顔には自信が湛えられている。
年齢を超えた、もっともな理由から彼女は他の新入生たちより大人びて見える。
youtubeで彼女の名前を検索すること ― それは彼女に関して求められる説明そのものである ― はズコウスキーの大学の友人たちが自分たちの仲間がいかに優秀なフィギュアスケート選手であったかを発見した方法だった。
「友達がyoutubeで私のことを検索して『こんなにすごかったって言ってくれればいいのに!』って言うんです」
ズコウスキーは自らの名声について恥ずかしそうに言って笑った。
ズコウスキーは5歳でスケートを始め、7歳にはもう試合に出場した。
両親、きょうだいを含む彼女の家族はペンシルバニアのワーミンスターからデラウェアのニューアークに引っ越すことにし、そのときには彼女が8歳だったのでデラウェア大学で練習することが出来た。
14歳、多くのティーンエイジャーが成績やテレビゲーム、異性に夢中になる頃、
ズコウスキーはトリプルを降りて全米ノービスチャンピオンになった。
多くのエリートスケーターが在籍する学校に入学する以前の2年はホームスクールだったように、高校生活はトレーニングスケジュールに合うようにしつらえられた。
その学校は生徒にトレーニングするための時間を許可した。
「私たちがトレーニングできるように12時に学校を終わりにしてくれます」ズコウスキーは言った。
「1セッション40分を4回滑って、それからトレーニングをしてバレエ、そのあと6時ぐらいに家に帰って宿題を始めるんです」
彼女は以前行ってきたスケジュールについて屈託なく話した。
まるで試合のために6時間以上も練習に費やすことがティーンエイジャーにとって普通であるかのように。
ズコウスキーがスケートを通じて楽しんだ旅は、彼女の年齢にしてはとても広範囲に及ぶもので、それは誰かに近くのリンクに急いで行き、すぐにレッスンを始めたくならせるのに十分だろう。
飛行機は彼女を、イタリア、クロアチア、アンドラ、フランス、そして中国へ運んだ。
パリへ行ったときのことを話すとき、エッフェル塔を訪れたことを思い浮かべ、
ズコウスキーは目に見えて顔を輝かせるのだった。
「見て回る時間はそんなになかったけど」彼女は言った。
スケートのための膨大な努力があってこそ、そんな旅があったのだった。
高校時代、ジュニアの終わりには、スケート界においてズコウスキーが期待の星であるのは明らかだった。
彼女はすでに全米ノービスチャンピオンであり、全米ジュニアで2位、さらには世界ジュニアで3位であったのだから。
トップまであと少し、という素晴らしい選手の一人であったズコウスキーはもう一段階上の世界へ行くという覚悟が出来ていた。
しかしズコウスキーにとっては不運なことに、彼女の健康状態は違うプランをもっていた。
16の時、痛みは始まり、最初は単に背中のアライメントのずれによる痛みだと推測した。
しかし数え切れないほどの医師との予約、検査の後、椎間板ヘルニアと圧迫骨折が背中に見つかった。
「やり遂げようと思ったけど、これ以上は頑張れなかったんです」ズコウスキーは言った。
彼女のスケートキャリアの中で特に大変だった時期のことを思い出すと、しばらく彼女の陽気な性格は影を潜めた。
多くのティーンエイジャーがどの大学に通うか決める一方でズコウスキーは人生を変える決断に直面していた。
「リンクでママに電話をして、これ以上は頑張れないと伝えたのを覚えてます」彼女は言った。
その電話をもって、ズコウスキーのフィギュアスケートキャリアは終わった。
現在、テンプル大でBTMMを専攻し、ズコウスキーは新しい人生の章を始めている。
彼女の家族もCherry and Whiteだ。(テンプル大の校友組織だと思う)
父親はテンプルのスポーツマネージメント部門で働いているし、
クリスティンの妹はすでに2010年に高校を卒業したらテンプル大への進学を考えている。
ズコウスキーは将来スポーツ放送局で働きたいという。
「すごく残念です」彼女は言った。
「プリシラ・ヒルにコーチを変えたとき、彼女とのトレーニングでほんとにすごく進歩したんです。
だからよくなったと思っていた背中がそんなとき痛み出したのには悩まされたけど」
だが、ズコウスキーはフィギュアスケートの厳しい世界が彼女に教えた教訓を心から幸せで、有難いことだと思っている。
彼女はテンプルでのキャンパスライフが大好きだし、すでに彼女は学生組織に参加もしている。
結局、じっと座っていることは彼女の性に合わないのだろう。
「スケートが私を他の人より早く大人にさせてくれたと思うんです」彼女は言った。
「やるべきことをやってきた、それをさせてくれたスケートに感謝しています」
おいらのようなテキストイングリッシュではよく分からないとこも結構あったんで
もうちょいちゃんと読めたらいいなぁ・・・勉強しなおそうかな
そういえば日本の大学って自分で勉強しない限り英語ってほぼ取らずにすんじゃうところあるよね
早くもアメリカンガールの第3次成長期が訪れているのが少々ショックです・・・(^ω^;)
これはおいらの知っているズコウちゃんじゃない
アメリカ食文化おそろしや・・・
BTMMっていうのはBroadcasting, Telecommunications and Mass Mediaのこと
テンプル大学は法律関係で強いって聞いたことあったし、
前のインタビューではスポーツ弁護士だったかになりたいって言ってたけど今はこっちで頑張っているらしい(・∀・)
またどっかで見られたらいいなー
スケートの、特にシングルってたった半年でいろんなものが変わっちゃう
下剋上によって大きく表彰台メンバーが入れ替わったり、ルールが変わったり、
ニューフェイスがでてきたり、誰かがいなくなったり・・・
選手生命も短いスポーツだけど、それはその分その後の人生も他のスポーツと比べて長いということだ
志半ばで引退した選手たちが新しいステージでうまくいくように願うばかりです
さて、ズコウスキーですが、引退後の記事が出てました
スケアメの最中でなかなか書けなかったけど訳のせるので興味のある人はどうぞ
ほんとに適当です
Zukowski begins new life chapter
トールサイズのコーヒーカップとたくさんの教科書を小脇に抱えてLiacouras Walkを歩くクリスティン・ズコウスキーは、テンプル大の学生らしく見える。
5フィート1インチの彼女の歩みは小さなものだが確かな優美さと、笑顔には自信が湛えられている。
年齢を超えた、もっともな理由から彼女は他の新入生たちより大人びて見える。
youtubeで彼女の名前を検索すること ― それは彼女に関して求められる説明そのものである ― はズコウスキーの大学の友人たちが自分たちの仲間がいかに優秀なフィギュアスケート選手であったかを発見した方法だった。
「友達がyoutubeで私のことを検索して『こんなにすごかったって言ってくれればいいのに!』って言うんです」
ズコウスキーは自らの名声について恥ずかしそうに言って笑った。
ズコウスキーは5歳でスケートを始め、7歳にはもう試合に出場した。
両親、きょうだいを含む彼女の家族はペンシルバニアのワーミンスターからデラウェアのニューアークに引っ越すことにし、そのときには彼女が8歳だったのでデラウェア大学で練習することが出来た。
14歳、多くのティーンエイジャーが成績やテレビゲーム、異性に夢中になる頃、
ズコウスキーはトリプルを降りて全米ノービスチャンピオンになった。
多くのエリートスケーターが在籍する学校に入学する以前の2年はホームスクールだったように、高校生活はトレーニングスケジュールに合うようにしつらえられた。
その学校は生徒にトレーニングするための時間を許可した。
「私たちがトレーニングできるように12時に学校を終わりにしてくれます」ズコウスキーは言った。
「1セッション40分を4回滑って、それからトレーニングをしてバレエ、そのあと6時ぐらいに家に帰って宿題を始めるんです」
彼女は以前行ってきたスケジュールについて屈託なく話した。
まるで試合のために6時間以上も練習に費やすことがティーンエイジャーにとって普通であるかのように。
ズコウスキーがスケートを通じて楽しんだ旅は、彼女の年齢にしてはとても広範囲に及ぶもので、それは誰かに近くのリンクに急いで行き、すぐにレッスンを始めたくならせるのに十分だろう。
飛行機は彼女を、イタリア、クロアチア、アンドラ、フランス、そして中国へ運んだ。
パリへ行ったときのことを話すとき、エッフェル塔を訪れたことを思い浮かべ、
ズコウスキーは目に見えて顔を輝かせるのだった。
「見て回る時間はそんなになかったけど」彼女は言った。
スケートのための膨大な努力があってこそ、そんな旅があったのだった。
高校時代、ジュニアの終わりには、スケート界においてズコウスキーが期待の星であるのは明らかだった。
彼女はすでに全米ノービスチャンピオンであり、全米ジュニアで2位、さらには世界ジュニアで3位であったのだから。
トップまであと少し、という素晴らしい選手の一人であったズコウスキーはもう一段階上の世界へ行くという覚悟が出来ていた。
しかしズコウスキーにとっては不運なことに、彼女の健康状態は違うプランをもっていた。
16の時、痛みは始まり、最初は単に背中のアライメントのずれによる痛みだと推測した。
しかし数え切れないほどの医師との予約、検査の後、椎間板ヘルニアと圧迫骨折が背中に見つかった。
「やり遂げようと思ったけど、これ以上は頑張れなかったんです」ズコウスキーは言った。
彼女のスケートキャリアの中で特に大変だった時期のことを思い出すと、しばらく彼女の陽気な性格は影を潜めた。
多くのティーンエイジャーがどの大学に通うか決める一方でズコウスキーは人生を変える決断に直面していた。
「リンクでママに電話をして、これ以上は頑張れないと伝えたのを覚えてます」彼女は言った。
その電話をもって、ズコウスキーのフィギュアスケートキャリアは終わった。
現在、テンプル大でBTMMを専攻し、ズコウスキーは新しい人生の章を始めている。
彼女の家族もCherry and Whiteだ。(テンプル大の校友組織だと思う)
父親はテンプルのスポーツマネージメント部門で働いているし、
クリスティンの妹はすでに2010年に高校を卒業したらテンプル大への進学を考えている。
ズコウスキーは将来スポーツ放送局で働きたいという。
「すごく残念です」彼女は言った。
「プリシラ・ヒルにコーチを変えたとき、彼女とのトレーニングでほんとにすごく進歩したんです。
だからよくなったと思っていた背中がそんなとき痛み出したのには悩まされたけど」
だが、ズコウスキーはフィギュアスケートの厳しい世界が彼女に教えた教訓を心から幸せで、有難いことだと思っている。
彼女はテンプルでのキャンパスライフが大好きだし、すでに彼女は学生組織に参加もしている。
結局、じっと座っていることは彼女の性に合わないのだろう。
「スケートが私を他の人より早く大人にさせてくれたと思うんです」彼女は言った。
「やるべきことをやってきた、それをさせてくれたスケートに感謝しています」
おいらのようなテキストイングリッシュではよく分からないとこも結構あったんで
もうちょいちゃんと読めたらいいなぁ・・・勉強しなおそうかな
そういえば日本の大学って自分で勉強しない限り英語ってほぼ取らずにすんじゃうところあるよね
早くもアメリカンガールの第3次成長期が訪れているのが少々ショックです・・・(^ω^;)
これはおいらの知っているズコウちゃんじゃない
アメリカ食文化おそろしや・・・
BTMMっていうのはBroadcasting, Telecommunications and Mass Mediaのこと
テンプル大学は法律関係で強いって聞いたことあったし、
前のインタビューではスポーツ弁護士だったかになりたいって言ってたけど今はこっちで頑張っているらしい(・∀・)
またどっかで見られたらいいなー