先週末は、中野さんを偲ぶ会に参加するために1泊で清里に行ってきました。
『中野さん』は前の職場で田んぼを担当していた時の、たんぼの師匠のような人で、昨年亡くなりました。
まだ61歳だったのに。
20数年前にサラリーマンを辞めて有機農家になるため山梨県の五町田という地域に引っ越してきた方で、
それから今まで奥さんと二人三脚で有機農業に体と心を費やしてきたのです。
初めは農薬を使わないで米を育てるなんて無理だと言っていたまわりの昔からの農家さんも、
しだいに中野さんの熱意に興味を持ち始め、有機農法に切り替える方が出てきたそうです。
そういう影響力を持った、厳しくてあったかい人でした。
偲ぶ会には15人くらいが集まったのですが、今まで中野さんに関わった懐かしい顔ぶれで、
埼玉や広島からも参加した人もいました。
こんなことがなければ集まることのなかったメンバーで、田んぼや近況の話を夜通しするのは本当に楽しかったです。
誰1人、今も田んぼとの関わりを断っていないことが印象的でした。
中野さんもそこに笑っているような不思議な感覚でした。
そして、人はいつか死ぬんだ、という当たり前のことを改めて考えさせられた2日間でした。
最後に、中野さんの田んぼへの想いが詰まった文章を掲載させてください。
中野さん、ありがとうございました。その想いはつながって生きてます。
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田んぼは、米生産の場であると同時に、それに伴ういろんな恵みをもたらしてくれました。
田んぼは、清浄な水や豊かな土を造ると共に多様な自然生態系を育みました。
また、米作りと結びついた暮らしの中から「稲作文化」と呼ぶにふさわしい多くの知恵と伝統を生み出してきました。
それは「米は地力で」という日本稲作2000年の歴史が示すように、お百姓の労を厭わぬ田んぼの手入れによって守られてきたのです。
ところが、生産力の向上を優先させたわずか40年ばかりの農業近代化の中で田んぼを取り巻く状況は大きな変貌を遂げたと言えます。
メダカやホタルがいつしか見られなくなり、それを追いかける子どもの姿が消えてしまいました。
田んぼに生きる多種多様な生き物の営みが稲の成長を助け、お米を頂くことで人間が生きられるという至極当たり前の
農と暮らしの関係が薄れていく中で田んぼの光景も寂しくなったように思います。
でも、生き物がまともに生きられないということは人間にとっても決していいことではないということに、今多くの人が気付き始めています。
八ヶ岳たんぼの学校ではかつての田んぼのにぎわいを取り戻してみたいと思います。
昔ながらのやり方でお米作りを体験しながら、稲の育ちを観察すると同じまなざしを、田んぼの生き物にも注いでいきたいと思います。
また農と暮らしの知恵を地域の人から学んでいきたいと思います。
一度失われたメダカやホタルが田んぼに戻ってくるのは不可能かもしれませんが、八ヶ岳たんぼの学校を体験する中で、
田んぼがもつ多面的な機能を改めて発見することにより、人と自然、人と人のつながりを考え直す第一歩にしたいと思うのです。
2001年八ヶ岳たんぼの学校計画書より
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