日記のようなもの

不思議に思うこと、思いついたことを記録しています。

「自己中」ゲーム 2

2010-12-19 16:45:41 | 日記
  ロールプレイングゲームの世界は、この世界感がよく現れている。このゲームをしたことがある人なら、自分視点で見るゲームがあること知っているだろう。
 自分はロール(役割)を演じていること。他者は、その者の役割を演じていること。自分の役割を演じながら、他者視点でゲームはできない。
 全プレイヤーが一同に画面に現れるゲームは、神の視点であり、人間が体験できる視点ではない。時間を共有しているイメージは、これが近いだろうが、自分を含めて上から眺めるような体験は実際にはできない。(もしこれができたとしても、自分を上から眺めている自分は、自分と異なる自分で、人格が分かれてしまう。)
 私は、自分視点のゲームの中で、自分の職業、役割を選択し、経験値をあげる。自分の服装や、防具、武器を強化していく。さらに、自分の家を作る。
 ゲームでは、最終ゴールが決まっている。永遠と終わりのないゲームもあるが。ゲームの目的は明確でその中での選択肢が決まっている。
 
 一方、私が毎日繰り広げている現実でのゲームは、最終ゴールが、死が決まっているだけだ。それはいつやってくるか分からない。死に至るまでの暫定目標は自分が置かれた環境の中で時々に選択し、私がそれに満足するか、しないかだ。
 私がそれに満足しないと言っても、何も変わらない。満足していなくても時間は過ぎてゆく。日々、私に残された時間は目減りしていき、かつ、そのゴールは突然に1秒後に来るかもしれない。
 私は、この残された時間がいつ来るか分からないことを希望とし、生きている。
 私は、現実の世界でも日々に私の防具と武器の機能強化をし、家をより良いものにしようと努力している。私がゴールにたどり着くときには、私はこの身一つで防具や武具は役にたたず、何一つ持つことができないことを知りながら。
 神の視点で人々を眺めれば、こせこせと皆同じことをしている姿が見えるだろう。立派な防具に武具、それに乗り物、大きな城を作りあげた人を見つけることができるだろう。大きな城のその周りには、それに仕える使用人や町人がいて、城下町が形成されているのが見える。
 私は、この城下町の住人の一人だ。そして主要メンバーではないと思う。それでも、この城下町の中の一角を占め、ヤドカリのように私の足場を固めている。
  この神から見たミニュチュアの世界で、私は、妻、子が幸せに暮らせることを願っている。彼女、彼も、このミニュチュア世界で、それぞれに自分の世界を持っている。
 このことを知りながら、私は、彼女、彼に決定的な役割を果たすことができない。彼女、彼の、私の今、この一時が暮らしやすいようしているだけだ。その努力も私が気がついた時にするだけで、よく忘れている。
 
 言葉のゲームは、そろそろお仕舞い、子と一緒に飛行機を撃墜しようか、狩にでも行こうか。ゲームを楽しもう。
  
 
 

私の時間および自己中 1

2010-12-18 09:21:16 | 日記
 私の時間、一人でいる時間、静かな時間を持とう。この「私の時間」は、人に邪魔されない時間のことだ。
 「私の時間」には、二つの意味がある。人に邪魔されない時間という意味だけではない。
 二人でいても、たくさんの人と一緒に過ごしていても、私の時間は私だけの体験であること。どんなに仲間や家族と一緒に楽しく過ごしても、悲しんでも、本当には時間を共有していない。共感することがあったとしても、相手が本当にはどのように感じているかは私は分かっていない。
 同じような楽しさ、悲しみを感じていることを私は推測ができるが、相手当人の感覚では理解できない。私が、当人になりかわることはできない。この意味で、時間は共有できない。私はいつも一人である。
 二人が向かい合い、お互いを見つめるとき、お互いの世界、視覚は違う方向、正反対の向きが見えている。どれだけ仲が良い人とすごす時間も、お互いの世界が見えている訳ではない。
 二人で旅行に行って同じ体験をしていても、厳密には同じ体験はできない。二人で同じ景色を眺めても、視点は異なり、その人の視力によっても見え方が異なれば、人生での経験によって、風景から受ける印象、感傷もことなってしまう。
 人は、私の世界の中に閉じ込められ、絶対的に一人で過ごしている。
 話相手があることは楽しい。それでいても、私は一人だ。互いに干渉しているようで、直接に互いの世界を行き交うことはできない。私は他者の世界の役者の一人となることができるだけだ。
 自己中心的、「自己中」という表現(個人主義かつ利己主義的人物を非難する用語のようだ。)を私の子がするが、世界の認識としては、自己中は間違っていない。誰の世界でも、世界の中心は自分だ。「他者中」の体験をした人は、シャーマンくらいだろう。
 子の言葉遣い、意味での「自己中」の何が問題なのか。私の世界に登場する役者たちも、自身の世界を持ち、彼らが皆、彼らの世界の中心であり、自己の利益を確保することを目的として生きていることに気がついていないこと。他者の自己中に対して敬意を持たないこと。これが問題だと思う。
 私は、きわめて自己中な人だと思う。ただ、他者の自己中は、自分の自己中と同じく尊敬すべきと思っている。生活の中で、このことを忘れ、特に自己主張が少ない他者(いわゆる自己中でない人)に対しては、その者の自己中を傷つけているかもしれない。
 今、こんなことを言っていても、いつも私が一人であるという事実は、いつも忘れていると言ってよいくらい忘れている。普段の生活で、自分が自己中、世界の中心だと、他者の世界が覗けないと感じていることはない。こんなことは、きれいさっぱり忘れて生活を楽しんでいる。
 でも、夕焼けを見るとき、星を見るとき、街の光を眺めるとき、遠くの山の稜線を眺めるとき、これらは、子供の頃からずっと眺めてきた風景だ。少しの時間に一人になる時、子供の頃からの風景に戻る時。このことは、私が一人であることを呼び起こしてくれる。この時間は、大切であり、愛おしい。
 

今日の終わりに

2010-12-12 21:34:25 | 日記
 今日、自転車で川べりを走る。夏や秋とは変わっていた。木々は、葉を落とし、空へ向かい枝だけを伸ばしている。空気もまた冷たくなった。
 この雰囲気が好きだ。夏や秋のバーベキューや遊びに来た人々のにぎわいも気持ちがいいが、人が少なくなった中を自転車で走ることは、静けさがあり、一人でいることがわかる。
 自転車のいいところは一人で走るところだろう。余分な音楽もない。好きなときに好きなところで立ち止まる。風景を楽しむことができる。道を一本外れれば、どこにでも初めて通るところがある。今日も小さな発見をする。
 
 夕方に買い物にでる。日が暮れた中、遠くの山に多くの光がある。街頭や、家の光が見えているのだろう。山のシルエットが暗がりに浮かんでいる。
 近くの家にも火がともり窓から部屋の中の一部が見える。家の中に何があるのだろうと思う。世間は、やかましかった昼間から、静かな世界へと移行しようとしている。こんな風に夕方に空を見て周りを見回すのは何度目だろう。
 だが、家の近くでこれをやっていると、周りに怪しく思われるのでいつも長く見ることはしない。また、あまり見続けていてもあきてしまう。
 
 夕食を終え、この時間に文章を書くことも一つの楽しみだが、そろそろ私も静けさの世界に参加しよう。 
 
 
 
 

力のこと 3

2010-12-11 15:02:00 | 日記
 力には、人がそれを頼る性質があると思う。力を行使できれば、短期的には自分の意思が達成できる。また力を行使することで、自分を強者として自身が尊敬することができ良い気分になることができる。また、他者も強者に対しては外見上の尊敬を払う。力が強くなれば、より強い力と対抗しなければならなくなる。私は勝ち続けるために、さらに強者とならなくてはならない。 
 それでいて、この力は私自身の力ではない。私の力と思っていても借り物である。
この力は、代わる者がいれば、あっさりその者の力となり、私はその力を失ってしまう。
 
 社会では、力の行使イコール暴力という理解はしていない。言葉の意味からは、暴力は、ルールの範囲内の力の行使は暴力と呼ばない。力の行使は、競争と言う理解が一般的だと思う。競争に勝つには努力を続け、今の地位を保つためには走り続けるしかない。立ち止まったとたんに皆は走りさり、自分は取り残されてしまう。この競争から抜けた者は怠け者であり、競争から取り残された理由はその者にある。
 人は、生活をして行くには、立ち止まることはできない。生活に余裕がない者は、走り続けることを余儀なくされる。
 世の中の多くの人は、走り続け、何のために走っているかにも気がつかない。競争から取り残される恐怖がために走り続けている。となりの人が持つ者を持たないことが許せない。
 このことに気がつけば、走ることの意味を考える。何を目的に走り続けているのだろう。何のために力を行使しているのか。
 力を使うことを目標としていないか。力を使うことは、その先の目標のために使っているはずだ。その目標が何かを忘れていないか。このことに気をつけていれば、力を使うことは目的にはならない。
 
 私は、力を使うことが好きであり、かつ、その力を使って有頂天になっている私を見ている。力を使っている時は、そのことに気がつかないが、後になって有頂天になっている私を見る。
 愚かだと思う。何故、力を使うことを喜んでいるのかと問う。その意味を考える。それでも同じことを繰り返している。力を使わずに生きていることはできない。力を使えば当然に反発がある。自分が使った力は、全部自分に返ってくる。
 

暴力考2

2010-12-05 16:08:04 | 日記
 良い暴力と、悪い暴力があるか。暴力とは力に依存することだと思う。社会には規範を強制する力がなければ、社会たりえない。
 この強制力が良い方向に向かっているか。悪い方向に向かっているか。社会の規範自体に悪が含まれていれば、社会が認める強制力にも悪があるのではないか。この良い方向、悪い方向は誰にとってか、誰が決めるのか。これは、誰にも教えてもらうものではない。集団の指導者や教祖が、決めたからと言ってこれにそのままに従うことは、暴力に従属しているに過ぎない。何故良いか、悪いかこれは私が判断する他ない。他人に聞いて教えてもらっても、結局はその教えが正しいかどうかを私が判断する必要があるからだ。
 この良い方向に向かう暴力は、暴力たりえるのか。言葉の使い方としても既におかしさがあるのだが、私が悪い暴力に対抗するのに使う暴力は、良い暴力と言えるのだろうか。世界には、平和維持活動として国家レベルの喧嘩の仲裁にやはり軍隊を使用し、実際に発砲をする。個人レベルでは、殴られている友人を助けるために、殴っている当人を殴りつけることが許されるのか。
 人は、自分の目的達成のために、やはり力の誇示、行使をする。ヤクザはヤクザと分かる格好をしているし、ヤクザでなくても、すごんて見せることはある。これは会社で上司が部下をしかるときも同じである。物の売り買いでも同じ。不公正な取引で顕著だが、力を誇示、行使せずに目的を達成することは難しい。
 どのような力の行使も、それが人を強制するもの、それが暴力足りえるという認識が正しいと思う。自分の力の行使が良い暴力であるか否かは、暴力を受ける人にとっては関係がない。やめて欲しいだけだ。暴力を受ける側にとっては、ただ力の誇示と行使の仕方が、強いのか弱いのか程度の差に過ぎない。力の行使が過ぎれば、どのような力の使い方も社会的にも暴力と認められる。身近に言うと、暴力は、お客や上司に張り倒されるか、罵倒されるか、やんわりと怒られるかの違いだ。
 良い暴力と、悪い暴力に違いはない。同じ現象を目的を通して良いか悪いかを個々に判断しているに過ぎない。人殺しは暴力だと思うが、死刑の執行や、戦争での殺戮は正当化される。軍隊でも民間人を銃殺すると法に違反するが、飛行機での爆撃では、民間人を目標にしてもこれは法に違反しない。
  子供への体罰にしても、愛があれば許されると言う議論があるが、愛の有無は子供には関係がない。愛で殴られる子供は、殴られる度に感謝しなければいけない。愛を主張する人が行う体罰は、自分の優位、大人の優位、腹立たしさを子供に伝えたいだけである。思わず叩いてしまったと言っても、自己満足のために叩いているものと思う。
 私は、一度、子の頭を叩いたことがある。世の中には暴力があること、自分の発言が暴力を呼ぶことがあると、実際その時は、子も1回は痛い目に会わないと分からないと考えた。これが愛のある暴力だろうか。私は、この時まさに暴力を振るったと思う。子の力では、それは防ぐこともできなかった。防ぐことができない者への力の行使。この時、叩くかどうか迷ったと思う。叩かずに言葉を使う選択肢もあったように思う。
 人は、暴力を振るわずには生活をすることができない。この暴力に良い、悪いを付けるのは自分だが、良い悪いにかかわらず、自分が暴力を行使していることをよく見つめる必要がある。自分が今、暴力を行使している認識がなければ、我を忘れて暴力を振るい続けることとなる。