ハリー・シンクレアがモスクワに滞在中、その使者はペルシャに現れていた。 折からペルシャでは北部地方の石油開発権をめぐって、英・米・ソおよびペルシャの四国間に紛争が続けられていたのである。 ペルシャは最初米国のスタンダードに対して開発権を賦与したのであるが、これに対して英国のアングロ・ペルシャン(英・イラン)石油は、同地方の利権はさきに旧ロシア人より譲渡を受けているとの理由で講義を申し込む。
一方、アングロ・ペルシャン(英・イラン)石油はスタンダードを懐柔して、北部地方の石油開発については共同営業することを決定して、ペルシャ政府にあたった。 しかし、ソビエトの尻押し、いやゲーペーウーのアインホルンの尻押しでリザ・ハーンはこの英・米合作を拒否したのである。ここに北部ペルシャの開発は暗礁に乗り上げてしまった。
ちょうどその頃、ペルシャに登場したシンクレアの密使は、ペルシャ政界の要人間を泳ぎまわり、初代人に黄金の贈り物を呈してご機変を取り結び、北部地方の採掘権獲得に狂奔した。リザ・ハーンが英・米合作を拒否したのは、結局、英国のアングロ・ペルシャン(英・イラン)石油が絶対勢力を握るようになることを恐れたためであって、米国資本の侵入を喜ばないためではなかった。
そうした際に、シンクレアが登場したのであるから、リザ・ハーンは喜んでこれを迎えた。ペルシャ議会はスタンダード石油に対する開発権付与の契約を取り消し、改めてその権利をアインクレアに与えることを決定した。もちろん、そうなるまでには紆余曲折があったが、結局、一千万ドルをペルシャ政府に供与することによって、北部ペルシャの石油開発権はシンクレアに賦与されることになったのである。
しかし、シンクレアが事業を開発するの先立って、二つの不祥事件が勃発した。 その頃、テヘラン駐在の米国副領事はロバート・ウィットニー・イムブリという人物であった。 彼は米国の「ナショナル・ジオグラフィック・マガジン」という地理学雑誌の依頼を受け、ペルシャの名所をカメラに収めることとなった。
1924年のある日のことであるが、彼は友人のマルヴィン・セイモアを伴い、自動車を駆ってペルシャ人に尊敬されている「聖なる井戸」に向かった。 自動車を下りてかえっらを調整しているとき、突然暴徒の襲撃を受け、散々に殴られ、命からがら自動車にのって逃げた。
セイモアも同じく打撲傷を負って逃げ、二人はある病院に担ぎ込まれた。 しかも、暴徒は執拗に追いかけてきて、病院にまで侵入してきてイムブリ副領事を殺して引き揚げていったのである。 セイモアは辛くも身をもって逃げることが出来た。
この悲惨事は英国の通信員によって世界に広がった。英国通信員の報ずるところによれば、ペルシャの狂信的宗教団体はかねてより白人排斥の傾向を持っていたので、イムブリが宗的聖地を撮影しようとしているのを神に他する冒涜とし、この暴挙に出たというのであった。
しかし、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のパリ特派員が、久しく英国諜報部員として近東地方にあったハロルド・スペンサーのいうところによると、イムブリ副領事を殺した暴徒は、実はシンクレアのペルシャ進出をよしとしない英・米石油資本家にそそのかされたものであるというのだ。
そしてイムブリを殺したのは、実は、護衛に当たっていたペルシャ兵の一人であったというのである。 こうした報道がシンクレアを驚かしているうちに、米本国ではシンクレアの擁護者であるハーディング大統領が開始を遂げた。 そしてその死後、ん内務長官フォールをめぐるティポット・ドーム汚職事件が暴露し、シンクレアおよびドーニーの贈賄の事実が白日化にさらけ出された。
この事件のために、シンクレアの国際的信用は失墜し、せっかく契約が出来ていた彼のソビエト進出も契約破棄となり、ペルシャにおいてもシンクレアの27万5千ドルの贈賄の事実が発覚して、遂に彼に対する開発権も破棄されることとなったのである。
同地方の開発はペルシャ政府自ら行うことになったが、1937年春、米国資本のアミラニヤン石油会社に開発権を与えた。 しかし、この契約によると、経営に必要な要員はなるべくペルシャ人によって補充するように約定してあり、租借年限が切れる頃にはしばらくペルシャ人の手によって運営ができるように考慮してあることは、注目すべきことである。
続く。 次の投稿は「世界を動かす石油」を予定しています。