ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

ある愛の物語 その1

2021-05-02 | アメリカ事情

ルイス・ムーアは、第二次世界大戦からの帰還後、アリゾナの日系人収容所からの解放後、1946年にニューヨーク市で日系アメリカ人のコーラスダンサーであるネリー・ハツミ・マエダに出会った。 二人は74年間結婚していた。(家族写真)LA Times.

 

 

先週のL A.Timesロサンジェルス・タイムス新聞にあった記事をご紹介したい。中国系アメリカ人と日系人のご夫婦の愛の物語である。(記者:Hailey Branson-Pottsヘイリー・ブランソンーポッツ;2021年4月28日水曜日午前6:00付け記事)多少長い記事なので、今日はその1として記す。

 

ルイス・ムーアは、ニューヨーク市のチャイナドール・ナイトクラブで、コーラスラインの右から3番目のダンサーを見つめずにはいられなかった。

それは1946年の春だった。第二次世界大戦はついこないだ終わったばかりだ。ムーアは23歳で、ヨーロッパ戦線に従軍し、米陸軍航空隊から新たに除隊し、両親と妹で、マンハッタンのオープンしたばかりの催し会場でその夜を楽しんでいた。

彼が目を離さずに見つめていたダンサーの彼女は彼が今まで見た中で最も素敵な瞳を持っていた。彼は彼女の注意を引いてみたいと望んで、毎晩のようにそこへ通った。

数週間後、彼は近くのカフェの窓際でコーヒーを飲んでいる時、彼女を見かけた。彼女に自分のテーブルに一緒に座るように頼むと、彼女は微笑んだ。彼らはセントラルパークを散歩し、尽きない話をした。

彼はニューヨーク出身の中国系アメリカ人の兵士で、海外戦務を終えて帰港した時、人々は歓喜を持って迎え入れた。ネリー・ハツミ・マエダは、米国政府によってアリゾナ州のヒラ・リバー移転センター【と書くと、聞こえは良いが、つまり日系人収容所である】に彼女と彼女の家族が収容された後、ようやく解放されて、自分の人生を再建しようとしていたカリフォルニア出身の日系アメリカ人女性だった。

出会ってから10日後に二人は結婚した。結婚生活は74年続いた。ネリーの日本人の祖先にがっかりした彼の両親は、最初の7年間は彼らと話をしなかった。

現在98歳のムーアは、COVID-19パンデミックの最中に反アジア人種差別の高まりに国が取り組もうとしているときに、彼のラブストーリーをできるだけ広めたいとしている。

この世界に必要なものがあるとしたら、それは愛だと彼は言った。

ランキャスターの隠居者施設に住むムーアは、ネリーとの生活についての78ページの回想録を出版した。彼はそれを「永遠の愛」と名付けた。

 

98歳の中国系アメリカ人で第二次世界大戦ベテランであるルイス・ムーアは、ランキャスターのアメリカンリジョンポスト311で彼の回想録「永遠の愛」のサイン会の前に、クォーツヒルヤングマリーンによる星条旗掲揚に敬意を表す。 4月25日(ゲイリー・コロナド/ロサンゼルスタイムズ)

 

太く、他を圧するような声を持つ、痩せ気味のムーアは先週末、ランキャスターの合衆国在郷軍人会311支部で数十人の人々と会合を開き、そこで彼の最初の本の署名を行い、「男性に気の利いた夫になる方法を教えたい」と望んでいた。

これは、パンデミックが始まって以来、米国在郷軍人会で最初の屋内イベントの1つだった。会場は満員だった。

ムーアが彼の著書本に署名したとき、ネリーが彼のそばにいてくれてたらとどれだけ望んでいたことか。

「私はここにいらっしゃるすべての男性に申します:あなたの奥様を尊重なさってください。あなたの奥様をお愛しになさってください。あなたの奥様を大切になさってください」とムーアは人々に言った。 「何故ならば、人生の荒波に常にあなたに寄り添い、あなたが病気になったときにあなたのために涙を流し、私の最愛のネリーが人生最後まで私を愛してくれたように、あなたの奥様は最後の日まであなたを愛し、あなたを支えてくれる人だからです。」

日本人移民の娘であるネリーは、1922年にカリフォルニア州フレズノで生まれ、両親の農場があったヴァイセリアで育った。

戦時中、米国政府は日系人12万人(その3分の2はアメリカで出生したアメリカ市民)を荒涼とした刑務所のような収容所に強制収容した。ネリーの家族はアリゾナに連れて行かれた。

ネリーはキャンプについてあまり話しませんでした、とムーアは言った。

彼女の家族が収容所から解放されたとき、ヴァイセリアの農場はなくなっていた。ネリーの両親は、西海岸では日系アメリカ人への恨みや迫害が多かったので、ニューヨークに行って仕事を探すように彼女に言った。彼女は乳母として、そしてチャイナドールで仕事を見つけた。

ムーアは1922年10月にサンフランシスコで生まれた。祖父は、彼の中国姓を入国管理官が発音できなかったので発音の似たムーアという英語式の姓を与えられた。

第二次世界大戦が始まると、ムーアは、空軍に先行する米陸軍航空隊に加わった。米陸軍歴史センターによると、彼は戦時志願・召集の13,000人を超える中国系アメリカ人の1人であった。

「私の友人と私はアメリカ軍に入隊して世界を救うつもりだったのです。」と彼は言った。

ムーアの部隊はクイーンメリー号でヨーロッパ戦線に送られ、そこの部隊では「ほぼすべての食事にスパム(ホーメル社が製造販売するランチョンミートで、腸詰の内容物を腸にではなく型にはめて缶詰にしてある)がありました」と彼は言った。

 

スパム

 

彼はドイツとの国境近くのフランスに駐留していた。部隊中に中国系アメリカ人であることは容易ではなかった。

「着ることができたすべての軍支給の服を身に付けた私は100、200人の白人兵士の中で唯一の東洋人でした」とムーアは言った。 「そのうちの誰か1人が私を敵側に連れて行って私を狙って撃つのではないかと心配したものです...怖かったですよ。」

 

ーその2に続く

 

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