歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

Go,Go! 名護屋城!!~そのとき太閤は?

2023-06-14 08:24:55 | 佐賀県
肥前名護屋城、ガイドのY氏に案内されて城歩き。

知らない方がご覧になったら、
石垣だらけの小高い丘にしか見えないかもしれないけれど・・・

かつて、この山を中心とする3km圏内に、
全国から140もの大名が陣を張った。


(佐賀県立名護屋城博物館の模型)


太閤・豊臣秀吉が唐入(からいり:大陸進出)の野望に駆られ
その命令一下、大名とその軍団は朝鮮へと船出した。
そして都合7年に及ぶ戦に臨む・・・(文禄の役 慶長の役)

その船出の場所が、ここだと思うと・・・

大陸からやってきた元寇とは逆、こちらから大陸へのルート、
九州の海の歴史は深い。



さて、ガイドYさんのご説明で驚かされたこと。

この二つの戦のあいだ、肝心の秀吉の動きだ。

前線へ出向くことは、前田利家、徳川家康に止められたにしても・・・
それにしても、だ。
前線に出ないアナタ様は、何をなさっていた???

それが本日のテーマ、
「そのとき、太閤・豊臣秀吉は??」を
まとめてみたい。



まず、最初に歩く、見晴らしの良いところが東出丸。↑
この下に、山里丸がある。
(未訪問。ちらっと見えるだけなので画像なし)
山里丸は、秀吉の名古屋滞在中の御座所だ。



秀吉が、海路、名護屋へ到着したのが天正20(文禄元)年4月末。
本人は、この後、渡海するつもりだったが、
前記事で触れたように、前田利家、徳川家康に説得され、
自らが朝鮮へ渡ることは,とりあえず当初は翌年まで延期と、あきらめた。

けれど、同じ頃4月の半ばには、
小西行長、宗義智ら一番組は、釜山に渡り、既に戦闘を開始している。



一方、秀吉。
名護屋について3ヶ月ほどの7月半ばに、
母・大政所が危篤との知らせを受け、
急ぎ大阪へ戻る。

秀吉が名護屋に戻ってきたのは11月のこと。

最愛の母が危篤、その最期を見届けてきたのだから
やむをえないが、
実に4ヶ月近くを、前線どころか国内・軍事拠点から
離れていたことになる。

朝鮮での戦況はと言えば、当初こそ、勝利していたものの、
初めての土地のこと、次第に厳しい状況へと追い込まれていく。

しかも、5月から7月までの頃は、李舜臣率いる軍勢に
日本水軍はを次々に撃破され・・・
年明け以後も、苦戦が続くばかり。


(本丸・天守閣跡方面を臨む)


その頃、太閤・秀吉は・・・?
お引っ越しだ。

大阪へ帰る前に命じていた、先の山里丸が完成したのだ。

秀吉が名護屋以来、寝起きしただろう本丸は、
ガイドのY氏と歩いてみると、海に面し、さえぎるものもない、
見晴らしの良さ。

ということは、風がビュウビュウ吹き付けるということだろう。
50代半ばを越えた太閤殿下には、これは辛い。
来たるべき冬が思いやられ、早いうちから、御座所の引越しを考え
実行に移したのが山里丸の建設。


(佐賀県立名護屋城博物館似て撮影)


無事、山里丸に引越しを済ませ、渡海も延期した太閤殿下。
何をしていたのかといえば・・・

5月には大坂城から移設した、↑「金の茶室」でお茶会を催したとの記録在り。
(この時代の武将は、茶会好きだもんね~)


そして、年明け2月からは・・・
お能の稽古!

名護屋の陣にいる間、能には、いたくご執着で、
金春流の能役者を呼び寄せて稽古に励んでいた。
新築した山里丸は能舞台を備えていたそうで、
ここで稽古を重ねたのだろう。
城内の本丸、二の丸でも能を催したという。

正室・お祢(おね 北政所)宛ての手紙でも、
「『松風』以下十番の能を覚え」稽古に励んでいる
と知らせているほど。(お得意だったにちがいない!?)


(本丸旧石垣)


そして8月3日、
側室・淀殿が大坂城で「拾(秀頼)」を生むと・・・
8月15日には、大坂城へ帰ってしまう。

ええ、また帰っちゃうの!?
おそらく、知らせを聞いて、すぐに!


その後は?
図録についている年表を見る限り、
秀吉が再び名護屋に戻ったという記述はない。

大政所の危篤・最期には陣を離れ、
息子が誕生となれば、また陣を離れ、
そしてどうやら最終的には戻ってこなかった・・・
秀吉自身の命が尽きてしまったからだ。

これでは戦地の士気が上がるはずもない。



ざっくりと、文禄・慶長の役の顛末を言うと・・・

小西行長の和平交渉(?)や秀頼の誕生もあり、
なんとなく休戦ムードが高かったのだけれど・・・

結局、慶長2(1597)に始まるのが慶長の役。
そして、翌年・慶長3(1598)年8月には、
先にも触れたが、秀吉自身が亡くなってしまう。

秀吉の死は秘密にされたものの、
秘密はどこからか漏れるもので・・・
ますます、朝鮮の日本軍は戦意喪失。

しかも、この情報は敵方にも知られていたので、
ヘタをすれば朝鮮軍・援助の名目で、
明国が攻めてくるかもしれない。

そんな極限状況の中、11月から日本軍の撤退が始まり、
12月の島津勢の博多到着をもって、
撤退は完了をみる。



その後、時代は大きなうねりをみせ・・・
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦を迎える。
秀吉の死から、わずか2年後のこと・・・

太閤・秀吉、晩年の四年間には関白・豊臣秀次(甥)と一族全員の処刑、
「26聖人の殉教事件」なども残忍な所業も続いた。

我が子「お拾」への愛情から、その将来を案じたのかもしれないが
農民から太閤まで上り詰めた人の末路としては、あまりに哀しい。




余談ながら、
大河ドラマ「どうする家康」、秀吉を演じるのはムロツヨシさん。
ムロさんの演技が、もう、うますぎて・・・
潤殿こと松本潤さん演じる徳川家康と、
将来対立し、苦しめる相手として、不足なし。

ムロ秀吉は、イヤな秀吉としては歴代最高・まちがいなし!
私なんて、あまりにムロ秀吉が気味悪くて、
ムロさんのことが嫌いになっちゃいそう・・・😫 



ガイドのY氏と別れた後、
どうしても行きたい場所があった。
それは波戸岬の先端で・・・

次回が、名護屋城の最終章。
どうぞ、またお訪ね下さいませ。

***************************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

以下を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いは多々あることと存じます。
歴史の素人と言うことで、どうぞお許し下さいませ。
誤字脱字は、ひたすらお詫びするしかありません。

◆参考
佐賀県立名護屋城博物館 編集・発行
「令和3年度 佐賀県立名護屋城博物館企画展
綺羅、星の如くー戦国の雄、肥前名護屋城参陣ー」


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2 コメント

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Unknown (fuhchan2399)
2023-06-15 06:27:51
ぴあ野さん
fuhchan2399です。
コメントありがとうございます。
ご主人が小机城のツアーに参加されていたのですか?わたしは「城を攻める城を守る」という
城の本から伊東潤を読むようになり最近の作品はほとんど読み、読書会にも参加しています。
わたしの名前が伊東冨士雄なので、会の皆さんにもよくして頂いています。伊東潤さんよりひとまわり上です。名護屋城2回行きました。博物館が素晴らしいですね。しかも無料です。これからよろしくお願いいたします。
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fuhchan2399さま (ぴあ野)
2023-06-15 15:29:52
fuhchan2399さん、このたびはフォローいただき、
またたくさんのコメントをいただき、
どうもありがとうございます。
拙い記事をお目通しいただいただけでも、
本当に嬉しいです。
どうぞ、今後とも、よろしくお願い申し上げます。

こちらに頂戴したコメントの補足を兼ねて、
後ほど、fuhchan2399さまの御記事に
追加コメントをいたしますね。

名護屋城は、初めてで、圧倒されてきました。
そうなんです、無料と言うところが太っ腹!
図録もどれも充実していて、図録選びに時間をとられ、
わたしは、ほとんど展示を観る時間がなくなってしまいました。
本末転倒もよいところですよね・・・
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