歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

コース①ツアーへ~鹿屋を訪ねる(6)

2024-03-17 16:19:48 | 鹿児島県
鹿児島旅行、2日目。

午前中は鹿屋で戦争遺跡をめぐる。
鹿屋市観光協会のコース①「笠野原・串良基地跡」(3か所)だ。
ガイドは、私よりかなりお若い、おきれいな女性ガイドさん。

昨日のガイドSさんからの引き継ぎがあったようで、
こちらの興味などを、しっかりわかってくださっている。
心強い。
そのため、オリエンエーションを省略し、すぐに出発する。


まず向かったのは笠野原エリア。

1922(大正11)年に誕生した、鹿屋初の飛行場で
当時は、大刀洗陸軍飛行場の離着陸用の民間飛行場だった。
真珠湾攻撃に参加した第二航空戦隊艦爆撃隊も、
ここを使っていたという。

だが1945(昭和20)年3月18日に始まる鹿屋への空襲で
基地施設は破壊される。
戦後は払い下げられ、今ではのどかな農地だ。



見学したのは「川東掩体壕(えんたいごう)」。(↑)
空襲などから飛行機を守るための格納庫で、
ここにはゼロ戦が納められてていたらしい。
サイズがぴったりなのだそうだ。



天井や壁には建築材料として紙袋が使っており
袋に書かれていた「セメント」の文字も、うっすらと読み取れた。



そこまでは、(↑)この画像で厳しいが、シワシワ感はわかる。
紙袋を使っていたためにできたシワができている。
当時、軍隊ですらモノがなかったということ・・・

人材も不足しており、この掩体壕を造ったのは中高生だったそうだ。
海軍設営隊は、それどころではなかったのだろう。

今、ここは少しずつ土地が沈んでいるらしく、
近い将来、立ち入り禁止になるかもしれない。

これとは別の形で掩体壕を見たことがある。
以前、大分県の宇佐飛行場跡を旅した時のこと。
かつての滑走路だった道路の近くでは
民家の脇に掩体壕がいくつも残り、車庫や物置として使われ
仰天した。

戦争遺跡の保存は難しい。



続いて、串良エリアへ。

ここは太平洋戦争末期に、教育航空隊として開隊され、
飛行予科生が航空機の整備・搭乗・通信などの訓練を受けている。

1945(昭和20)年3月からは、特攻の基地である。
終戦までに363名の特攻隊員と210名の一般攻撃員が
亡くなっている。

見学ポイントは、基地跡に残る「地下壕第一電信室」である。







特攻隊員が出撃し、敵艦に体当たりする前に、
攻撃報告のためのモールス信号を送る。
受信をしていたのが、ここの通信室である。



突撃直前に、乗員が送ったのモールス信号の再現音を聴く。
「ツー」という長音が続き、やがて途切れる。

目的通り、敵艦に体当たりできたのか、
あるいは敵に自分が撃ち落とされたのか・・・

ベテラン通信員になると、最後の「ツー」が長いと特攻・成功、
短いと敵からの攻撃を受けたと聞き分けられたそうだ。
どちらにしても、「ツー」の長音を残し、一つの命が喪われている。






最後に平和公園慰霊塔へ向かう。






ここは串良基地から飛び立ち戦死した特攻隊員・一般攻撃隊員を
祀っている。合掌。



近くには野球場があり、歓声が響いていた。
平和は何と尊いことか・・・


Yさんとも、またの出会いを約し、ここでお別れする。

その後、かつての滑走路だったという道路を走る。
「永遠の0」ドラマ版のロケ地でもある。
滑走路は、ちょうど今の桜の並木まで広がっていたという。
満開の桜の頃は、どんなに美しいだろうか。



さて・・・

わたしの地元・横浜には、戦争末期、
日吉に「海軍連合艦隊司令部地下壕」が築かれた。
串良の地下壕と、造りは、よく似ている。

驚いたのは、鹿屋の場合、日中はオープンで、
誰もが自由に入れることだ。
無人で無料。

日吉の地下壕は慶應義塾の敷地内のこともあり、
見学は義塾の許可した見学会の中でしか認められていない。
普段は厳重に施錠され、見学も警備員立ち会いの下でに限られる。

鹿屋はの話は羨ましい限りだが、この違いは、立地の差だろう。

もし、日吉の地下壕をオープンにしたら・・・
都会は、いろいろな人が居る。
あっという間に破壊されてしまうかもしれず、
厳しい見学規制もやむをえまい。

実際、串良では、わたしたちが見学している間、
どなたもやってこなかった。
イタチが車道を横切っていっただけw

繰り返しになるが、
戦争遺跡の保存に加え、公開は難しい・・・と、思う。


Yさんによると、串良地下壕では、近所の女性が
戦後ずっと掃除をし、きちんと管理を続けてくれていたそうだ。
その女性は「これは大事なもので、絶対に残さなければいけない」と
考えられての無償の行為だったという。

頭が下がる・・・

そんな住民の思いが通じ、
鹿屋では、戦争遺跡が鹿屋市の指定文化財となっている。
すばらしい。


語弊があるが、わたしは戦跡が好きだ。

同じような戦跡好き仲間に、鹿屋戦跡ツアーに参加したと話すと、
全員が全員、同じ反応を示した。
「良いなぁ!鹿屋、行きたいんだよね~」と。

それもあって、後半、端折りながらではあるが、
「鹿屋」旅行記・更新のスピードを上げた。

今更ながらだが、自分が貴重な旅をしたと、実感している。


📷冒頭画像は、道中、あちこちで見かけた
燃えるような赤い実を着けた樹。
Googleさんは「クロモジ」というが・・・?

***********************
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

ガイド氏のお話を記録したメモや以下の参考資料をもとにまとめましたが、
勘違いや間違いはあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。

参考:
●『魂(こころ)のさけび―鹿屋航空基地新史料館10周年記念誌』
  鹿屋航空基地史料館協力会
●多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』
 現代書館
●パンフレット「戦争を旅する」鹿屋市ふるさとPR課
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5 コメント

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Unknown (なおとも)
2024-03-17 21:56:33
こんばんは!

今日も心に残る文章に読みいりました。特にモールス信号のツーのお話には、胸が締め付けられました。沢山の若い方の犠牲を決して忘れてはいけないと思います。
子供の頃、まだ防空壕の跡など見る事が出来て、戦争の足跡を感じていましたが、これからは何とか語り継がないといけませんね。

ぴあ野さんの文章、向田邦子や佐藤愛子が戦争の事を綴った随筆を思い出します。澤地久枝の「妻たちの二・二事件」を読んだ時の事も思い出しました。また楽しみにしています。 なおとも
返信する
なおともさま (ぴあ野)
2024-03-18 06:15:29
なおともさん、また畏れ多いことを!
お名前の上がっている方は素晴らしい大作家さん!
とんでもございませんことです・・・

『妻達の二・二六事件』も夢中で読みました。
余談ですが、鹿屋の特攻隊員に226事件で自決した野中四郎大尉の弟・五郎大佐がいたんです。
陸軍軍人の一族にあって、ひとり海軍を選んだのは、どんなお気持ちだったのかなぁと思ったものです。
(事件とは関係ないらしいけれど)

わたしも子ども時代に防空壕を見て育った世代です。
戦後の名残を感じて育った最後の世代かもしれません。
しっかり考え伝えていきたいと思います。

コメントをどうもありがとうございました。
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Unknown (あたこ)
2024-03-18 21:34:23
こんばんは
鹿児島旅行記、興味深く読ませていただきました。あちらが終わってしまったみたいなのでこちらに感想を書かせていただきますね。
わたしにとっては鹿児島といえば、屋久島、奄美大島、娘家族は韓国岳(去年登ってきました)自然ばかりに目が向いていましたが、歴史の面でも大切な役割のあった県だったと改めて気づかされました。
知覧は知っていましたが鹿屋も特攻基地があつたなんてー恥ずかしながら初めて知りまして、衝撃を受けています。もっと早くに知っておくべきことだったのに。詳しいレポートを書いてくださったびあ野さんに感謝です。
実は、とらおが近代史に興味を持っていて、戦跡巡りが好きなんですよ。登山目的の旅だったので諦めたのでしょうが、きっと行きたかったはずです。
沖縄でもそうでしたが、多くの若い命が絶たれたことを思うと、改めて戦争への怒りが湧いてきます。
歳をとったからでしょうか、死地へ赴く若者もさることながら、送り出す司令官の心情に深く共感を覚えるんです。どんな思いで命令を下したのか。自分が出撃する方がずっと楽だったと思うんですね。そして、遺族を訪問して自死したというー
誠実に生きようとすればするほど苦しまなければならなかった。司令官もまた戦争の犠牲者だったと。多分若い時にはこれほど胸を打たれなかったと思います。
今も戦争を仕掛け続けている人間にこの痛みはないのだろうかと、改めて思うわけです。
語り継がなければなりませんね。
ありがとうございました。
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あたこさま (ぴあ野)
2024-03-19 08:14:33
あたこさん、長文の、そして心にしみるコメントをどうもありがとうございます。
あたこさんが、拙い記事から、わたしの想いを受け止めてくださって嬉しくなっています。

鹿児島は自然も豊かなので、わたしたちも雄大な景色に心打たれています。
あたこさんは屋久島などにも足を延ばされ、羨ましい限りです。

鹿児島は全部で陸海軍あわせ6ヶ所の特攻基地がありました。
本当は鹿屋や知覧以後も訪ねる予定だったのですが
さすがに辛くなって挫折しました。

知覧は以前にも出かけており、心打たれたのですが
今回訪ねて、ちょっと違和感を抱いてしまい、
知覧については戦跡の点からは記事をアップしていません。

司令官の気持ち、ましてや自責の念に心苛まれたであろう人のことを考えると
本当に辛いですよね・・・
ただ、やはり人それぞれで、戦後も悠々と生ききった方も大勢です。
中には部下を道連れに自死したらしき人もいます・・・
未来ある若い人を道連れにするなよ、と叫びたいですよね。
結局はその人の性格、誠実さによるのかもしれません。
今、自分は危険のない場所にいて、言いたい放題の命令を下すなんて言語道断。
傷みなんて全くないでしょう・・・

戦争の名残があった昭和の頃、子ども時代を過ごした者は
どんな形でも良いから伝えていきたいですね・・・
一生懸命生きている命がある日突然、武力によって理由も無く奪われるなんて、
考える度に悔しくて、哀しいですからね・・・

実は鹿児島旅行記、本家でも続けたいのですが、
なんだか気持ちが乗らなくて放置しています。
今、気持ちがすっきりしないので、こちらの方が書きやすくなっています。
どちらも、またおつきあいいただければ嬉しいです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
返信する
あたこさまへ 追伸 (ぴあ野)
2024-03-19 08:24:25
あたこさん、大事なことを書き忘れていました!

とらおくん、近代史にご興味があるとのこと・・・
お若い人が、頼もしいです。
わたしの周りにも、10代の頃から戦跡に興味を持ち、
今大学の教員として研究に勤しんでいる人がいます。
あたこさん、とらおくんの時に先達として時に仲間として、
おつきあしてさしあげてくださいね!
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