![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/5d/f0af078e8f6038888a073e9df13c99a8.jpg)
肥前名護屋城、ガイドのY氏に案内されて城歩き。
知らない方がご覧になったら、
石垣だらけの小高い丘にしか見えないかもしれないけれど・・・
かつて、この山を中心とする3km圏内に、
全国から140もの大名が陣を張った。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/5a/079659b1b84a9eeb9a6cd77632c4190d.jpg)
(佐賀県立名護屋城博物館の模型)
太閤・豊臣秀吉が唐入(からいり:大陸進出)の野望に駆られ
その命令一下、大名とその軍団は朝鮮へと船出した。
そして都合7年に及ぶ戦に臨む・・・(文禄の役 慶長の役)
その船出の場所が、ここだと思うと・・・
大陸からやってきた元寇とは逆、こちらから大陸へのルート、
九州の海の歴史は深い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/c3/648a4f55c373cae92cd91f6cac9a24ff.jpg)
さて、ガイドYさんのご説明で驚かされたこと。
この二つの戦のあいだ、肝心の秀吉の動きだ。
前線へ出向くことは、前田利家、徳川家康に止められたにしても・・・
それにしても、だ。
前線に出ないアナタ様は、何をなさっていた???
それが本日のテーマ、
「そのとき、太閤・豊臣秀吉は??」を
まとめてみたい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/0e/1a0fc69f302fe8911cbcf1bd0ddac286.png)
まず、最初に歩く、見晴らしの良いところが東出丸。↑
この下に、山里丸がある。
(未訪問。ちらっと見えるだけなので画像なし)
山里丸は、秀吉の名古屋滞在中の御座所だ。
秀吉が、海路、名護屋へ到着したのが天正20(文禄元)年4月末。
本人は、この後、渡海するつもりだったが、
前記事で触れたように、前田利家、徳川家康に説得され、
自らが朝鮮へ渡ることは,とりあえず当初は翌年まで延期と、あきらめた。
けれど、同じ頃4月の半ばには、
小西行長、宗義智ら一番組は、釜山に渡り、既に戦闘を開始している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/f6/20702c8d1c22ca5a46ad9c105aa4d62f.jpg)
一方、秀吉。
名護屋について3ヶ月ほどの7月半ばに、
母・大政所が危篤との知らせを受け、
急ぎ大阪へ戻る。
秀吉が名護屋に戻ってきたのは11月のこと。
最愛の母が危篤、その最期を見届けてきたのだから
やむをえないが、
実に4ヶ月近くを、前線どころか国内・軍事拠点から
離れていたことになる。
朝鮮での戦況はと言えば、当初こそ、勝利していたものの、
初めての土地のこと、次第に厳しい状況へと追い込まれていく。
しかも、5月から7月までの頃は、李舜臣率いる軍勢に
日本水軍はを次々に撃破され・・・
年明け以後も、苦戦が続くばかり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/40/4e2fda88fad830a001182519562b453d.jpg)
(本丸・天守閣跡方面を臨む)
その頃、太閤・秀吉は・・・?
お引っ越しだ。
大阪へ帰る前に命じていた、先の山里丸が完成したのだ。
秀吉が名護屋以来、寝起きしただろう本丸は、
ガイドのY氏と歩いてみると、海に面し、さえぎるものもない、
見晴らしの良さ。
ということは、風がビュウビュウ吹き付けるということだろう。
50代半ばを越えた太閤殿下には、これは辛い。
来たるべき冬が思いやられ、早いうちから、御座所の引越しを考え
実行に移したのが山里丸の建設。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/d9/7d8ea2320621a0aa424a11b60b533d35.jpg)
(佐賀県立名護屋城博物館似て撮影)
無事、山里丸に引越しを済ませ、渡海も延期した太閤殿下。
何をしていたのかといえば・・・
5月には大坂城から移設した、↑「金の茶室」でお茶会を催したとの記録在り。
(この時代の武将は、茶会好きだもんね~)
そして、年明け2月からは・・・
お能の稽古!
名護屋の陣にいる間、能には、いたくご執着で、
金春流の能役者を呼び寄せて稽古に励んでいた。
新築した山里丸は能舞台を備えていたそうで、
ここで稽古を重ねたのだろう。
城内の本丸、二の丸でも能を催したという。
正室・お祢(おね 北政所)宛ての手紙でも、
「『松風』以下十番の能を覚え」稽古に励んでいる
と知らせているほど。(お得意だったにちがいない!?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/d6/7bba118da1cdf87b9c1670dec0ca0a66.jpg)
(本丸旧石垣)
そして8月3日、
側室・淀殿が大坂城で「拾(秀頼)」を生むと・・・
8月15日には、大坂城へ帰ってしまう。
ええ、また帰っちゃうの!?
おそらく、知らせを聞いて、すぐに!
その後は?
図録についている年表を見る限り、
秀吉が再び名護屋に戻ったという記述はない。
大政所の危篤・最期には陣を離れ、
息子が誕生となれば、また陣を離れ、
そしてどうやら最終的には戻ってこなかった・・・
秀吉自身の命が尽きてしまったからだ。
これでは戦地の士気が上がるはずもない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/09/7dfe5301ffa4db6d356af7c1b09ac635.jpg)
ざっくりと、文禄・慶長の役の顛末を言うと・・・
小西行長の和平交渉(?)や秀頼の誕生もあり、
なんとなく休戦ムードが高かったのだけれど・・・
結局、慶長2(1597)に始まるのが慶長の役。
そして、翌年・慶長3(1598)年8月には、
先にも触れたが、秀吉自身が亡くなってしまう。
秀吉の死は秘密にされたものの、
秘密はどこからか漏れるもので・・・
ますます、朝鮮の日本軍は戦意喪失。
しかも、この情報は敵方にも知られていたので、
ヘタをすれば朝鮮軍・援助の名目で、
明国が攻めてくるかもしれない。
そんな極限状況の中、11月から日本軍の撤退が始まり、
12月の島津勢の博多到着をもって、
撤退は完了をみる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/27/9e37b0daeb730149edec29db3d58e4a3.jpg)
その後、時代は大きなうねりをみせ・・・
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦を迎える。
秀吉の死から、わずか2年後のこと・・・
太閤・秀吉、晩年の四年間には関白・豊臣秀次(甥)と一族全員の処刑、
「26聖人の殉教事件」なども残忍な所業も続いた。
我が子「お拾」への愛情から、その将来を案じたのかもしれないが
農民から太閤まで上り詰めた人の末路としては、あまりに哀しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/60/9bdacb51508d44e5c34cee75dbf24c71.jpg)
余談ながら、
大河ドラマ「どうする家康」、秀吉を演じるのはムロツヨシさん。
ムロさんの演技が、もう、うますぎて・・・
潤殿こと松本潤さん演じる徳川家康と、
将来対立し、苦しめる相手として、不足なし。
ムロ秀吉は、イヤな秀吉としては歴代最高・まちがいなし!
私なんて、あまりにムロ秀吉が気味悪くて、
ムロさんのことが嫌いになっちゃいそう・・・😫
ガイドのY氏と別れた後、
どうしても行きたい場所があった。
それは波戸岬の先端で・・・
次回が、名護屋城の最終章。
どうぞ、またお訪ね下さいませ。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いは多々あることと存じます。
歴史の素人と言うことで、どうぞお許し下さいませ。
誤字脱字は、ひたすらお詫びするしかありません。
◆参考
佐賀県立名護屋城博物館 編集・発行
「令和3年度 佐賀県立名護屋城博物館企画展
綺羅、星の如くー戦国の雄、肥前名護屋城参陣ー」
「令和3年度 佐賀県立名護屋城博物館企画展
綺羅、星の如くー戦国の雄、肥前名護屋城参陣ー」
fuhchan2399です。
コメントありがとうございます。
ご主人が小机城のツアーに参加されていたのですか?わたしは「城を攻める城を守る」という
城の本から伊東潤を読むようになり最近の作品はほとんど読み、読書会にも参加しています。
わたしの名前が伊東冨士雄なので、会の皆さんにもよくして頂いています。伊東潤さんよりひとまわり上です。名護屋城2回行きました。博物館が素晴らしいですね。しかも無料です。これからよろしくお願いいたします。
またたくさんのコメントをいただき、
どうもありがとうございます。
拙い記事をお目通しいただいただけでも、
本当に嬉しいです。
どうぞ、今後とも、よろしくお願い申し上げます。
こちらに頂戴したコメントの補足を兼ねて、
後ほど、fuhchan2399さまの御記事に
追加コメントをいたしますね。
名護屋城は、初めてで、圧倒されてきました。
そうなんです、無料と言うところが太っ腹!
図録もどれも充実していて、図録選びに時間をとられ、
わたしは、ほとんど展示を観る時間がなくなってしまいました。
本末転倒もよいところですよね・・・