歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

コース②ツアーへ~鹿屋を訪ねる(4)

2024-03-14 17:33:01 | 鹿児島県
鹿屋での戦争遺跡ツアー、どんどん記憶が薄れていくので・・・
とにかく先に進めたい。


小塚公園を出た後、向かったのは
「桜花の碑」と「野里(のざと)小学校」だ。
ガイドのSさんが運転する前の車は、なかなかにクネクネした道を進む。

あとで、Sさんがおっしゃった。
「もっと近道もあるのですが、高台から降りていったところに
建っていたと、そのことを感じていただきたくて・・・
あえて走りにくい道を通りました」と。

なるほど・・・


さて「桜花」をご存知だろうか?

特攻兵機のひとつで、「人間爆弾」とも呼ばれる。
スミソニアン博物館では、、かつてのコードネームからか
「BAKA BOMB(バカ・ボン=バカ爆弾)と表記されていると聞く。

グライダーをイメージするとわかりやすい。

桜花は自力では飛べない。
母機の一式陸攻にぶら下がって、目的地まで連れて行かれ、
そこでパイロットが乗り込むと、切り離される。
桜花は、ほんのわずかの時間、飛んでいき敵に体当たりする・・・のだ。

重い爆弾を積んでいるうえ、自力で飛べないので、
ヨタヨタ飛んでいれば、体当たりする以前に打ち落とされてしまう。
しかも、たいてい母機である一式陸攻も道連れになる。
この機は大型なので、その分、犠牲者が多くなったと。読んだことがある。



桜花作戦を行った雷神部隊(第721海軍航空隊)が宿舎としたのが、
野里(のざと)国民学校だった。

作戦によって人数は違うが、特攻要員は、ここで数日を過ごす。
作戦は天候次第で変更されるので、何日も出撃を待つこともあった。
その間、隊員は手持ち無沙汰で、宿舎のあった学校の周りを散歩したり、
時には近隣の農家の仕事を手伝ったりしたという。


そんな特攻隊員は、近所の農家から親しまれ、
卵や枇杷が届けられたそうだ。

宿舎の担当員が、司令部へ届けるように言うと、
「それでは卵が隊員さんの口に入らない。
わたしたちは隊員さんに、この卵を召し上がって欲しいのだ」
と、譲らなかった・・・そんなエピソードを聞いた。

卵は貴重品だし、軍隊は階級社会、
よいものは全て上の階級にとられてしまう。
それを知っての住民の発言だろう。



今や、当時の面影を示すものは、国旗掲揚台の台座だけだ。

戦後、野里小学校としてスタートした、かつての国民学校も、
既に移転してしまい、校舎も何も残っていない。


だが、Sさんは言った。

「地形は当時のままです」と。



折しも、菜の花が満開だった。
まさに「いちめんのなのはな」。
最初の出撃は沖縄戦をにらみ、3月のことだった。
してみると、特攻隊員達も、この菜の花畑を眺めたにちがいない。



「桜花の碑」は車道を隔てた(↑)、崖下にある。
出撃前に、特攻隊員が、別れの盃をかわした場所だ。

碑には「神雷特別攻撃隊員 別杯之地 /桜花/ 山岡荘八」と
刻まれている。

山岡荘八は川端康成と一緒に、「海軍報道班員」として
鹿屋へ到着した。
積極的に、隊員と交流を深めたことから、
戦後30年を経てもなお、この揮毫につながったのだろう。


一方でシャイで、黙ってばかりの川端に
批判的だった隊員もいたという。

だが、川端は、黙っていても、
その心に、しっかりと隊員の姿を焼き付けていたのだろう。

戦後、1955(昭和30)年の川端が発表した小説「虹いくたび」は
三姉妹の物語であるが、その長女・百子は恋人を特攻で亡くしている。
恋人との最後のとき、彼は百子の胸を石膏で型取り、
それを別盃の折に使いたいと言う・・・との場面がある。

(ちょっと気味が悪いのだけれど、そこが川端らしいw)

川端の中に10年を過ぎてようやく、鹿屋での日々を
作品に反映することができたのだろう。



ここから25mほど上、崖の上に、第五航空艦隊司令部の置かれた、
鹿屋航空基地があった。

陸軍の知覧基地などを合わせても、
もっとも特攻機が飛び立った、特攻の中心基地だ。


今はガサ藪で全くわからないが・・・

当時、隊員は別盃のあと、この崖にある山道を歩き、
崖上に出ると、トラックに乗って滑走路へと運ばれていく。
その折りには、立ったまま軍歌を歌うのが習わしだった。

若き隊員は、崖の道を、どんな想いで登ったのだろうか・・・



現在、崖の上には、海上自衛隊・鹿屋航空基地があり、
ひっきりなしにヘリコプターや航空機の飛んでいる。
その基地内、第一航空隊が、毎週、自発的に、この記念碑周りを清掃し、
花を手向けているそうだ。


最後にもうひとつ。

「鹿屋の特攻班員に悲壮感は全くなかった」と、いう。
前年1944(昭和19)年8月には志願し、10月から11月には
特攻隊員に任命されていたため、いよいよとなった春には、
「生死などはとっくに超越した者達だったからだろう」(94頁)と
『魂のさけび』にある。

司令の岡村基春大佐は、勝手気ままにさせるのが統率方針だったそうだ。
それも影響したのかもしれない。

出撃の日、桜花の隊員は整列して、岡村大佐から正式の命令を受けた。
「わしも必ず後から行く。みんなで元気に行け」・・・。

戦後1948(昭和23)、岡村大佐は「遺族巡りと放浪の果て」に、
鉄道へ身を投げたという・・・


このあと、ガイドSさんの先導で、車は海へ向かった・・・

**************************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

ガイド氏のお話を記録したメモや以下の参考資料をもとにまとめましたが、
勘違いや間違いはあるかと存じます。
素人のことと、お許し下さいませ。


参考:
●『魂(こころ)のさけび―鹿屋航空基地新史料館10周年記念誌』
  鹿屋航空基地史料館協力会
●多胡吉郎 『生命(いのち)の谺(こだま) 川端康成と「特攻」』
 現代書館
●パンフレット「戦争を旅する」鹿屋市ふるさとPR課
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2 コメント

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Unknown (なおとも)
2024-03-14 23:36:10
こんばんは!
今回も読み応えのある文章に感嘆するばかりです。特攻隊の方に卵を食べさせたいという方の気持ちに、ジーンと胸を打たれました。土地の方々との逸話は読んだことがありましたが、本当に覚悟を決めた人間の強さに感銘を受けました。
川端康成の少し変わった所をまたひとつ知り、可笑しくなりました。本当に興味深く拝読しました。なおとも
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なおともさま (ぴあ野)
2024-03-15 08:48:37
なおともさん、いつもコメントをどうもありがとうございます。
ガイドさんのご案内も観光目的ではないだけに
胸に迫るものが多々ありました。
当時の空気感が今も遺るところです。

川端も最後は自死するわけで・・・
その現場となった海沿いの高級リゾートにあるマンション、
その近くによく出かけるので、最近、とみに惹かれております。
それだけに何とも言えない想いです。
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