歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

Go,Go! 名護屋城!!~大名の陣

2023-06-09 08:53:39 | 佐賀県
「日本100名城」でもある佐賀県の肥前名護屋城跡。
そのレキ旅(歴史をテーマにした旅)記の前に・・・
言い訳を😓 

私の場合、城跡だろうが、戦跡だろうが
構造など物理的な問題を解説されても
ひたすら・・・????? 
頭が受け付けない。

そんな人間が、城跡を論理的に語れるわけもなく・・・

ここでは、この城を舞台に、どう人が生きていたのかを、
物語的というか、感覚的というか、そんな書き方になることを
最初にお断りし、お許しを願いたい。

つまりは・・・
ガイドのY氏が、きちんと説明してくださったのに、
わたしが理解できぬまま、右から左に抜けてしまったと言うこと。
(Yさん、申し訳ございません!)



豊臣秀吉の唐入(大陸進出)第一歩、
朝鮮出兵のための軍事拠点が肥前名護屋城。

もともと、この地には、名護屋氏の垣副城という城があったらしい。
これを生かして築いたであろう名護屋城に加え、
その周囲3km圏内には140もの大名の陣屋がある。
とにかく巨大なのだ。

中心となる名護屋城の普請を命じられたのは黒田孝高(ヨシタカ)
大河ドラマで、岡田准一さんが演じた「軍師官兵衛」のことね♥
縄張り(設計)の名手として知られるパパ・勘兵衛が図面を引き、
実際に指揮を執ったのは、嫡男・長政。
(大河ドラマでは松坂桃李さんでした♥)


主に九州の大名を総動員し、それぞれのチカラに合わせ、
築城担当を割り当てる「割普請(わりぶしん)」方式をとったので、
結果、工期が大幅に短縮された。

つまり・・・
「隣の〇〇家は、もっと作業が進んでいるぞ、我が家も急がねば」
とか「あの家にだけは負けたくない」など、大名家の競争心を
あおったわけだ。

結果、隣り合った石垣なのに、
組み方が違うなんてことも、よくある話。(↓画像)



また朝鮮出兵のために参陣した大名は全国から集まっており、
「この人まで?」という名前も出てくる。

たとえば足利義昭。

Yさんによると、一番見学者が驚く名前が、この人なのだとか。
15代にして最後の足利将軍は
「まだ生きていたんですか?」と言われるらしい。

この人は織田信長の後援で、将軍になるものの、
結局、信長とは決裂・・・その後は波瀾万丈。

(足利義昭は、気になる存在で、昨秋に広島県・鞆の浦 で
ゆかりの地めぐりをしているほど→「鞆幕府は?」)

晩年のこの頃(50代の終わり)、
さしもの義昭も将軍職を辞任、1万石の大名となっていた。
大名である以上、当然出陣・・・
文禄の役では500人を率いて、名護屋に陣を構えた。

そのときに無理をしたのが元で亡くなった、と言われている。



(図録「綺羅、星の如く」66頁より)


陣屋の位置を見ていると、おもしろい。
ちょっと危なそうな(=離反しそうな)大名は
城の突端の僻地を与え、近くには秀吉の子飼いを配置。

たとえば島津義盛は一番海沿い、
その周りには増田長盛や蜂須賀家政が控えているように見える。
そんなところは、安土城の信長と同じだ。

上に立つ者は、用心深いということ。
いや、慎重でなければ上に立てないというべきか。




さて、この陣跡位置図を見ると、徳川家康だけ
二つの陣を構えていることに気づく。

ガイドのY氏にも、最初のビュースポットともいうべき
東出丸で教えていただいた。

名護屋浦をはさんだ対岸に、別陣。(↑画像)
もうひとつが、こちら側の丘にある本陣。

豊臣秀吉が徳川家康に気を遣ったのかと思いきや、
何のことはない、前田利家と水場争いが起こり、
当初、陣を構えた別陣から、本陣に移ったのだという。
結果として、別陣は接客用となる。


徳川家康と前田利家、
豊臣政権を支える五大老の中でも、秀吉の信厚き二人の諍いとは・・・

徳川、前田、それぞれの軍団も、
有力な主人を仰ぐ以上、誇り高かったのだろう。
結果、譲ることができず、騒動に発展したのかもしれない。

このときは秀吉自らがに仲介にあたり、落着したとのこと。
太閤様も、ご苦労さまだ。



残された、当時の様子を描いた屏風図によると、
各陣屋は瓦葺きの居館と草庵茶室も備えられていたようだ。

実際に渡海して朝鮮で戦った、
小西行長や加藤清正らは辛酸をなめている。

だが、渡海しなかった大名陣は、案外優雅だったのかもしれない。

徳川家康も、前田利家も、渡海していない。
豊臣秀吉は、本人こそ、渡海するつもりが満々だったものの
万が一の危険を考え、家康と利家が反対し、とりやめとなった。

で、三人とも、名護屋城に待機となるわけ。

文禄の役の最中に、秀吉の側室・茶々(後の淀殿)が
次男・拾(秀頼)を出産するのは、よく知られている話。
小田原合戦の時と同じく、
秀吉は、名護屋へも、若く美しい側室を連れて行ったのだ。

秀吉の「幼なじみ」前田利家も、
名護屋の陣中に仕えていた侍女チヨとの間に
後の加賀藩2代藩主・利常をもうけている。

子どもの誕生は、おめでたいことではあるけれど・・・
朝鮮で血みどろになって戦う大名、兵達がいたことを思うと・・・

いつの世も、戦争は同じと言うことか。
血を流すのは前線の兵士、
戦争を指導する権力者は、後方の安全な場所で檄を飛ばすだけ。
(北の国の、あの人と同じ)



なお、秀吉の朝鮮出兵問題で、
渡海を取りやめさせた家康・利家にたいし、
渡海を主張したのは石田三成。

後の歴史を考えれば、
このときの徳川家康と石田三成の対立は、興味深い・・・


・・・と、書き連ねていたら、
もうこんなに長くなっていた!

本当は、強硬に「唐入(からいり)」のための
朝鮮出兵を実現させた割には、
秀吉は、なんだったんだろう?と感じたことを
まとめるつもりだったのだけれど・・・

いずれまたということで
本日はこれにて幕引きを・・・。

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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

以下を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いも多々あるかと存じます。
歴史の素人とお許し下さい。

誤字脱字については、歴史の知識以前の問題、
粗忽な性格で、お恥ずかしいですw

◆参考
佐賀県立名護屋城博物館 編集・発行
「令和3年度 佐賀県立名護屋城博物館企画展
綺羅、星の如くー戦国の雄、肥前名護屋城参陣ー」


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