
東京湾に浮かぶ、唯一の無人島といわれる猿島。
観光地としても人気だが、かつては首都防衛を担う
明治以来の「砲台の島」だった。

拙ブログの「ヨコスカ猿島」記事は、
3月にガイド付き60分ツアーに参加した備忘録である。
そもそもは海からの攻撃を想定し、陸軍が砲台を築いたが
関東大震災で大打撃を受けたため、陸軍はこれを放棄・・・
という話だった。

本日は、「昭和編」、
猿島が海軍に移管されてから、
アジア太平洋戦争下までをまとめておきたい。

猿島の向かい、つまり1.7km先は軍港・横須賀。
海軍鎮守府の置かれた、海軍の中心的都市である。
(現在はアメリカ海軍の基地となっている↑)
1936(昭和11)年、日中戦争開戦の前年に、
猿島は海軍へ移管される。
1941(昭和16)年に、アジア太平洋戦争が始まると、
横須賀から多くの兵士が配属された。
島の高台に据え付けられた、高射砲を担当するためだ。
昭和に入り、猿島を管理した海軍は
明治の施設をリノベーションする一方で、新しい施設も造っている。
そのひとつが、この高射砲の砲台だ。
戦時下、海軍兵は、毎日、高射砲へ弾薬を込める訓練に
明け暮れたという。それも当初は、どこか暢気だった。
戦争は、大陸奥地の中国で、あるいは南洋の島々という
遠いところで繰り広げられていたものの、
まさか、日本本土が戦禍に巻き込まれるなど
思いもしなかったからであろう。

さて、昭和に入ると、
明治の頃に造られた兵舎は「棲息掩蔽壕(セイソクエンペイゴウ)」と呼ばれ、
簡易な場所として使われたようだ。(↑右手奥に兵舎あり)
海軍におなじみのハンモックはなく、毛布三枚が支給され、
畳が敷かれたなかで、火鉢から暖をとったそうだ。
島には70人ほどの兵士が詰めていたという。
ガイドさんによると、兵は横須賀の基地から
通ってきていたのではないかということだった。
兵舎の数が圧倒的に足りないと不思議だったが、
それなら納得できる。

明治に築かれた累道(↑)もリノベの賜物か。
今は観光用に板を渡し、木道として歩きやすいが、
一部、かつての道を偲べるところがある。
敷石があるものの、歩幅には合わない。
ガイドさんによると、海軍兵はいつも走らされているから
それに合わせ、間隔を開けているのではないか?とのことだった。

明治の第一砲台の下にあった
弾薬庫は通路にリノベーションされている。
トンネルの中は漆喰造り、弾薬庫や兵舎と同じく、
見るからに部屋の造りだ。
弾薬庫にあった、弾を上の砲台へ運ぶための
揚弾井(ヨウダンセイ)の跡も見られた。

明治期と昭和・アジア太平洋戦争の時代では、
テクノロジーの進化により戦い方が変わり、
必要とされる軍事設備も変わってきているのだから当然だ。

かつての弾薬庫をリノベした通路を出ると、
ほどなく東京湾が見晴らせる高台にでる。
島の北側斜面である。
ここからは遠く東京タワーやスカイツリーも見え、
千葉の工場地帯も望める。

かつて陸軍が築いた第1、第2海堡も、
猿島から東京へのライン上に並んでいたことになる。
まさに防空の要。
ここには75mm高角砲の台座が残る。
いちはやく塁道を抜けて駆けつけるには、
なるほど、あの元弾薬庫の通路は便利だ。

この台座を含め、島内には計4つの海軍が造った砲台があった。
(↓画像も砲台の跡)
明治時代は海からの攻撃だったが
昭和の時代は空からの攻撃に対する防御を想定している。

1944(昭和19)年11月以降、サイパンの陥落後、
東京への空襲が本格化する。
だが、B29は高度10000mの上空を飛ぶのに対し、
猿島からの高角砲は射程5000~7000mに過ぎず、
手も足も出ない。
急ぎ、海軍はあらたに12.7糎(センチ)高角砲座を造る。
急ごしらえだったためと、資材不足のせいだろう、
貝殻の混じった砂がコンクリート材として使われていた。

コンクリートの砲座には、敵からの攻撃を受けた場合に
兵が退避する場所も設けられている。
だが・・・
1945(昭和20)年7月18日、横須賀への最大級の空襲が行われた。
目標は軍港・横須賀と「長門」である。
(パールハーバーの恨みということか)
長門は真珠湾攻撃当時、海軍連合艦隊司令部の置かれた旗艦だが
横須賀に係留され、いわゆる「浮き砲台」だった。
長門は、空からの攻撃を受け、大きな損傷を受ける。
猿島では、新しく造られた12.7糎高角砲座(↑)からの攻撃を行う。
弾を撃てば撃つほど、砲弾の大きな欠片が、
雨あられと兵士の頭から降ってくる。
しかも、この日、攻撃をしかけてきたのは、
B29ではなく、艦載機だ。
この低空攻撃に対し、高角砲座は為す術もない。
パンフには、このとき「電力不足か思うように動かなかった」と
あり、いずれにしても、戦果を挙げることができなかったのである。

(かつての見張り台)
NHKの番組「戦争遺産島」では、
19歳で猿島に着任していた兵士の肉声が放送された。
彼は、このとき12.7糎高角砲座の射撃手だった。
「オレはあと何秒生きていられるかなって・・・
実弾25発を売ったときは終わりだと思った」と。
隣りでは、実弾を数えていた兵士が、青くなって動かない。
「早く弾をよこせ」と声をかけると、
首に大きな弾丸の欠片が刺さっていた。
「そのあと、どうなったのかわからない。戦争だもんね」と
かつて19歳の兵士だった人は言葉を結んだ。
この日、猿島の死者は2名だったという。
最後に「浮き砲台」だった「長門」について
ガイドさんが話してくださり、参加者一同が言葉を喪っていた。
横須賀の空襲で損傷した「長門」は
乗務員に死傷者30余名を出している。
その後、修復されることもなく、そのまま横須賀に係留されていた。
終戦後は、アメリカ軍に武装解除され接収された。
そして、1946(昭和20)年7月、マーシャル諸島のビキニ環礁へ。
長門は、核実験の標的にされたのだ。
1度の攻撃では沈まず、2度目で沈んだという。
真珠湾攻撃から戦後のビキニへ・・・
数奇な運命をたどった長門は、今も海の底に沈んでいる。
歴史好きとして「長門」の運命は知ってはいたが、
同じ話でも聞く度に、やりきれない思いに駆られる。
「最後の最後に哀しい話を聞いちゃったわ」
ガイドツアー参加者の女性がつぶやいた。
参考:
●「国指定史跡『猿島砲台跡』」パンフレット
●斎藤潤『日本の島 産業・戦争遺産』マイナビ出版
●斎藤潤『日本の島 産業・戦争遺産』マイナビ出版
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
ツアーから時間が経っているため、思い違いや勘違いも
有るかと存じます。
素人の備忘録と言うことで、どうぞお許し下さいませ。