goo blog サービス終了のお知らせ 

歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

ヨコスカ猿島~昭和編

2025-03-29 10:30:04 | 神奈川県
東京湾に浮かぶ、唯一の無人島といわれる猿島。
観光地としても人気だが、かつては首都防衛を担う
明治以来の「砲台の島」だった。



拙ブログの「ヨコスカ猿島」記事は、
3月にガイド付き60分ツアーに参加した備忘録である。

そもそもは海からの攻撃を想定し、陸軍が砲台を築いたが
関東大震災で大打撃を受けたため、陸軍はこれを放棄・・・
という話だった。



本日は、「昭和編」、
猿島が海軍に移管されてから、
アジア太平洋戦争下までをまとめておきたい。



猿島の向かい、つまり1.7km先は軍港・横須賀。
海軍鎮守府の置かれた、海軍の中心的都市である。
(現在はアメリカ海軍の基地となっている↑)


1936(昭和11)年、日中戦争開戦の前年に、
猿島は海軍へ移管される。
1941(昭和16)年に、アジア太平洋戦争が始まると、
横須賀から多くの兵士が配属された。
島の高台に据え付けられた、高射砲を担当するためだ。

昭和に入り、猿島を管理した海軍は
明治の施設をリノベーションする一方で、新しい施設も造っている。
そのひとつが、この高射砲の砲台だ。


戦時下、海軍兵は、毎日、高射砲へ弾薬を込める訓練に
明け暮れたという。それも当初は、どこか暢気だった。

戦争は、大陸奥地の中国で、あるいは南洋の島々という
遠いところで繰り広げられていたものの、
まさか、日本本土が戦禍に巻き込まれるなど
思いもしなかったからであろう。


さて、昭和に入ると、
明治の頃に造られた兵舎は「棲息掩蔽壕(セイソクエンペイゴウ)と呼ばれ、
簡易な場所として使われたようだ。(↑右手奥に兵舎あり)
 
海軍におなじみのハンモックはなく、毛布三枚が支給され、
畳が敷かれたなかで、火鉢から暖をとったそうだ。
島には70人ほどの兵士が詰めていたという。

ガイドさんによると、兵は横須賀の基地から
通ってきていたのではないかということだった。

兵舎の数が圧倒的に足りないと不思議だったが、
それなら納得できる。



明治に築かれた累道(↑)もリノベの賜物か。

今は観光用に板を渡し、木道として歩きやすいが、
一部、かつての道を偲べるところがある。

敷石があるものの、歩幅には合わない。
ガイドさんによると、海軍兵はいつも走らされているから
それに合わせ、間隔を開けているのではないか?とのことだった。



明治の第一砲台の下にあった
弾薬庫は通路にリノベーションされている。
トンネルの中は漆喰造り、弾薬庫や兵舎と同じく、
見るからに部屋の造りだ。

弾薬庫にあった、弾を上の砲台へ運ぶための
揚弾井(ヨウダンセイ)の跡も見られた。



明治期と昭和・アジア太平洋戦争の時代では、
テクノロジーの進化により戦い方が変わり
必要とされる軍事設備も変わってきているのだから当然だ。



かつての弾薬庫をリノベした通路を出ると、
ほどなく東京湾が見晴らせる高台にでる。
島の北側斜面である。

ここからは遠く東京タワーやスカイツリーも見え、
千葉の工場地帯も望める。



かつて陸軍が築いた第1、第2海堡も、
猿島から東京へのライン上に並んでいたことになる。
まさに防空の要。

ここには75mm高角砲の台座が残る。
いちはやく塁道を抜けて駆けつけるには、
なるほど、あの元弾薬庫の通路は便利だ。



この台座を含め、島内には計4つの海軍が造った砲台があった。
(↓画像も砲台の跡)

明治時代は海からの攻撃だったが
昭和の時代は空からの攻撃に対する防御を想定している。



1944(昭和19)年11月以降、サイパンの陥落後、
東京への空襲が本格化する。

だが、B29は高度10000mの上空を飛ぶのに対し、
猿島からの高角砲は射程5000~7000mに過ぎず
手も足も出ない。

急ぎ、海軍はあらたに12.7糎(センチ)高角砲座を造る。
急ごしらえだったためと、資材不足のせいだろう、
貝殻の混じった砂がコンクリート材として使われていた。



コンクリートの砲座には、敵からの攻撃を受けた場合に
兵が退避する場所も設けられている。

だが・・・

1945(昭和20)年7月18日、横須賀への最大級の空襲が行われた。
目標は軍港・横須賀と「長門」である。
(パールハーバーの恨みということか)

長門真珠湾攻撃当時、海軍連合艦隊司令部の置かれた旗艦だが
横須賀に係留され、いわゆる「浮き砲台」だった。
長門は、空からの攻撃を受け、大きな損傷を受ける。


猿島では、新しく造られた12.7糎高角砲座(↑)からの攻撃を行う。
弾を撃てば撃つほど、砲弾の大きな欠片が、
雨あられと兵士の頭から降ってくる。

しかも、この日、攻撃をしかけてきたのは、
B29ではなく、艦載機だ。
この低空攻撃に対し、高角砲座は為す術もない


パンフには、このとき「電力不足か思うように動かなかった」と
あり、いずれにしても、戦果を挙げることができなかったのである。


(かつての見張り台)


NHKの番組「戦争遺産島」では、
19歳で猿島に着任していた兵士の肉声が放送された。
彼は、このとき12.7糎高角砲座の射撃手だった。

「オレはあと何秒生きていられるかなって・・・
実弾25発を売ったときは終わりだと思った」と。

隣りでは、実弾を数えていた兵士が、青くなって動かない。
「早く弾をよこせ」と声をかけると、
首に大きな弾丸の欠片が刺さっていた。

そのあと、どうなったのかわからない。戦争だもんね」と
かつて19歳の兵士だった人は言葉を結んだ。

この日、猿島の死者は2名だったという。


最後に「浮き砲台」だった「長門」について
ガイドさんが話してくださり、参加者一同が言葉を喪っていた。

横須賀の空襲で損傷した「長門」は
乗務員に死傷者30余名を出している。
その後、修復されることもなく、そのまま横須賀に係留されていた。

終戦後は、アメリカ軍に武装解除され接収された。

そして、1946(昭和20)年7月、マーシャル諸島のビキニ環礁へ。
長門は、核実験の標的にされたのだ。
1度の攻撃では沈まず、2度目で沈んだという。

真珠湾攻撃から戦後のビキニへ・・・
数奇な運命をたどった長門は、今も海の底に沈んでいる。

歴史好きとして「長門」の運命は知ってはいたが、
同じ話でも聞く度に、やりきれない思いに駆られる。


「最後の最後に哀しい話を聞いちゃったわ」
ガイドツアー参加者の女性がつぶやいた。


参考:
●「国指定史跡『猿島砲台跡』」パンフレット
●斎藤潤『日本の島 産業・戦争遺産』マイナビ出版

******************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
ツアーから時間が経っているため、思い違いや勘違いも
有るかと存じます。
素人の備忘録と言うことで、どうぞお許し下さいませ。


最新の画像もっと見る