
去年の夏、体調を崩して以来、ずっとあきらめていた旅行へ
久しぶりに出かけることができた。
旅のメインは、小豆島だ。
小豆島は、作家・壺井栄の故郷である。
著者の小説「母のない子と子のない母と」を、小学校6年生以来、
今も愛読してきた。
今回は、半世紀に亘り、愛読してきた作家を訪ねる旅だ。

(壺井栄文学碑 冒頭は二十四の瞳映画村バス停、醤油樽を利用)
壺井栄(1899/明治32~1967/昭和42)
小説家、児童文学作家。
代表作「二十四の瞳」は、1952年、木下恵介監督・高峰秀子主演以来、
繰り返し映画化されている。
わたしの中で、栄は「母のない子と子のない母と」の
「おとらおばさん」のようなイメージだった。
実際、この小説の発表後は、栄を「おとらおばさん」その人だと
思い込んだ読者から、相談の手紙が来たり、
実際に子どもを預けに来る親がいたりしたそうだ。
栄のそんな人間像は、故郷で過ごした若き日ゆえのあたたかさ、
だろうと思っていた。
その若き日は貧しい暮らしのため、
進学もままならず、早くから弟妹の面倒を見て、
生計を支えてきた、苦労人だからだ。

(栄の通った小学校、↑苗羽小学校とされるが・・・)

(途中で偶然通った坂手小学校跡、こちらの方が栄の生家に近く、
こちらに通ったのではないだろうか 栄の生家界隈↓)

ところが、である。
都留文科大学名誉教授・鷺只雄は
そんな「二宮金次郎の女性版」の如き栄像を排す。
提示するのは、「男から男へと次々に乗り換え、大胆に新しい恋に
身を踊らせていく恋多き女」(454頁)という新しい栄像だ。
しかも「栄の青春は裏切りの連続」であり
「無残な青春」とまで言い切る。
以下、鷺氏の説く、その所以を挙げる。
最初の恋人である、同郷の作家・黒島伝治は、
親友に出し抜かれ奪われた。
(周囲には恋人と噂されていたものの、本人は否定し続けるが)
次は大塚克三(後に舞台装置家として大成)。
画家だった彼は、小豆島へ毎年スケッチに来ており、
栄と知り合い、愛し合う。
大塚の実家は大阪の芝居茶屋で、
栄は女将になることを覚悟していたが、
大塚ときたら、最後の最後に「君にはムリ!」と言う始末。
驚きなのは、その後、「別れの記念」に、二人で別府温泉へ出かけ、
二十日も滞在していることだ!
鷺氏は、これを「奔放さ、大胆さ」というけれど、
あわよくば・・・という計算があったのではなかろうか、などと
わたしは思ってしまう。
三人目が夫の壺井繁治。
やはり同郷で、小学校の一学年上の同窓生でもある。
プロレタリア文学運動に身を投じた詩人、
当時では「生活無能力者と言ってもいい」男性だ。
そこへ栄は押しかけ、結婚したのである。
繁治は、その後、逮捕・拘留、出獄を繰り返し、
ついには転向、挫折してしまう。
いや、ここまではいい。
「生活無能力者」だって構わない。
だが、繁治ときたら、栄を裏切る!
なんと、夫婦の暮らしを支えるため、
栄が宮本百合子宅へ手伝いに出ている隙に、
恋愛事件を起こしたのだ。
しかも、相手は栄が信頼し、親しく付き合ってきた中野鈴子、
詩人・中野重治の妹ときた。
このとき、栄は、手の跡がつくほど、鈴子をはりとばし
撃退したという。
爽快!

(壺井繁治生家)

(壺井繁治詩碑の有る公園は、生家のすぐ脇にある

(生家界隈、車は入れないだろうな~↑↓)

これをきっかけに、栄は作家として本腰をいれる。
そうでもしなければ超えられない現実があったのだろう、
と鷺氏は見る。
一方で、以下のようにも言う。
「善良でお人好しでニコニコ顔のおばさんの反面に隠された、
血で血を争う地獄の中から這い上がってきたもうひとつの顔」が
栄には隠されていたと。
わたしも長らく「ニコニコ顔のおばさん」のイメージを
持っていただけに、評伝を読み、腰を抜かしそうな衝撃を受けた。
でも、考えてみれば、かつて読んだ、栄の小説には
当時(昭和二十年代発表の作品?)としては、
かなり大胆だったであろう恋愛観が伺えた。
まだ潔癖な子どもだったわたしは、そこに嫌悪感をもつ。
それをきっかけに、新たに栄の小説を読むのを止め、
その後は、手元にある三冊を繰り返し読むことになったのかもしれない。
そういえば、「おとらおばさん」も、
「善良でお人好しでニコニコ顔のおばさん」だが、
夫と子どもを戦争で亡くし、何もかも喪っても、たくましく生き抜き、
さらには子連れの従兄と再婚するという、
ある意味、大胆な選択をしているではないか。
この年齢になれば、さすがにモロモロにうなずけ、
新しい壺井栄像を示してくれた鷺氏の卓見に、
むしろ拍手喝采だ。

さて、鷺氏の評伝は、まことに綿密で、
読み始めてすぐに、栄の先祖を追う戸籍が出てきたときは、
度肝を抜かれた。
地元からの信頼があっての戸籍調査だろう。
「壺井栄研究の第一人者」なれば、こそだ。
鷺氏を「壺井栄研究の第一人者」として教えてくれたのは、
尊敬する知人である。
知人は鷺氏と親しく、よくお名前を口になさっていた。
いつか鷺氏のお話を伺えたらと、わたしも遠い昔に願ったものだ。
ところが、思いがけず、知人は亡くなってしまう。
結果、わたしが鷺氏とお目にかかる機会は失われた。

(みなとみらいホールの窓から撮影したので、格子が入っています)
今、鷺氏の壺井栄・研究の集大成ともいうべき、
この評伝をようやく手に取って驚かされた。
2012年出版の評伝、その奥付には、
著者略歴欄として、氏の住所、それも横浜みなとみらいが
記されていたのだ。
私と同じ横浜、しかも、よく出かける「みなとみらい」に
鷺氏は、お住まいだった!
氏は、大病をなさったため、以後は、奥さまが資料整理や浄書を担当、
この評伝も奥さまが浄書をなさった旨の謝辞を述べられている。
その鷺氏も、2018年、82歳でお亡くなりになった。
ご体調の優れぬ中、この大著を、奥さまと二人三脚で
執筆されていたのだと思うと、胸が痛む。
小豆島を旅すると決め、この評伝を読んで以来、
みなとみらいを歩くと、
鷺氏のこと、なつかしい知人のことが想い出されてならない。
📖:参考
●鷺只雄『〔評伝〕壺井栄』翰林書房
●須浪敏子『壺井栄年譜~壺井栄五〇年の暦』壺井栄顕彰会
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