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歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

ヨコスカ猿島~明治編

2025-03-26 08:19:21 | 神奈川県
横須賀、猿島。

東京湾に浮かぶ唯一の無人島ながら
横須賀(新三笠桟橋)から約1.7km、船で10分とアクセス最高

東西約200m、南北約450mの自然の島で、
常緑樹のジャングルでにおおわれている。
磯遊びに、BBQと大人気の島である。


(猿島の模型)


この島は、かつて首都、江戸・東京を防衛するための
「猿島砲台」であり、民間人は立ち入り禁止だった。

島内には、当時の多くの史跡が残り、
国の史跡「猿島砲台跡」に指定されている。

以前から、歩いてみたかったのだが、
3月の初めに、ようやく散策できた。

以下、60分の現地ツアー(実質は70分)に参加したおりの
メモを元に、いくつかの資料を参考にまとめておきたい。


(新三笠桟橋から昨年4月に就航のKUROFUNE号に乗船。隣は船艦「三笠」)



猿島では縄文時代の遺跡も発掘され、
命名は鎌倉時代、日蓮聖人が難破のおり、猿に導かれ助かったという
伝説による。(実際に島内で猿は見られない)
歴史豊かな島だ。


「要塞の島」としての歴史も、
江戸時代末、明治、昭和と3つの時代が重なり合っている。

1847(弘化4)年、卯の崎台場他ケ箇所を築いたのは江戸幕府。
東京湾に入り込む異国船の脅威が迫っていたからである。

その6年後1853(嘉永6)年7月、浦賀にペリーが黒船を率いて来航。
ペリー提督は翌日から早速東京湾の測量を行い、
海図を作った。
そこには猿島が「PERRY ISLAND」と名付けられているそうなw

ただし、幕府が築いた島内の台場は、卯の崎台場以外は現存しない。
1つは江戸末期の大地震(1855年・安政江戸地震)で崩壊、
残り2つは明治の砲台を築く際に取り壊された。



明治に入ると「台場」ではなく「砲台」が築かれる。

「台場」と「砲台」との違いは、日本風の築城か
洋風の築城かによるという。
したがって、明治以降は「砲台」と呼ばれるわけ。

東京湾における「砲台」の築城に熱心だったのが
山県有朋だ。
日清戦争を意識していただけではなく
列強の脅威も感じていたからにほかならない。
(後の元帥・陸軍大将だしね)



1881(明治17)年、猿島は陸軍の所轄となる。
やがて砲台建設が始まり、
1884(明治20)年以後は、台場も消えてしまう。

こうして日清戦争開戦(1994)の頃には、
「砲台」は、ほぼ完成していたが
幸いにも、実際に使われることはなかった。
(あくまでも首都防衛の砲台で、攻められていないから)


だが、1923(大正12)年9月1日の関東大震災で、
猿島は大きな被害を蒙る。
結果、陸軍は猿島を放棄、以後、猿島は海軍省に移管した。

横須賀は海軍の軍港、
海軍鎮守府が置かれていたことを考えれば
これも納得である。




・・・ということで、まずは明治の戦争遺跡。

造られたのは、ほとんどが明治時代であり、
昭和に入り、海軍は、今風にいえばリノベして使っているが・・・

ともかく、本日は明治のお話を。

まずは、最初の見学ポイント「電気燈機関舎」。
(1895/明治28年竣工)



要は発電所。
当時は石炭発電だったので、煙突が設けられ、
地下には貯水槽も残る。

驚いたことに、なんと現役!
今も島内の電気は、ここで賄っているという。

なお、この電気が、猿島頂上の探照灯に使われていたそうだ。



この裏手からは山道である。
そこにマンホールならぬハンドホールが残る。
「マンホールは人が入れる穴、ハンドホールは手しか入らない穴、
ともに作業用です」とガイドさん。



この先にはフックや土管の跡が残る。
発電所で作られた電気が、このようにして頂上まで
届けられていたことがうかがえる。



塁道(いわゆる切り通し)を進んでいくと、
レンガ積みが見えてくる。
猿島で必ず話題になる「フランス積み」と
イギリス(オランダ)積」だ。

それぞれ時代が違うので、レンガ積みに注目すれば
築年代を特定できるわけ。
双方が向かいあっているのだから、すごい!

フランス積みは明治10年代に、
イギリス積みは明治20年代に、それぞれ主流だった。
先の電気燈機関舎も、この積み方だ。




ちなみに、先へ進んでいくと、「東海・・・?」という
名古屋の会社の刻印が施されたレンガが残っていた。
この刻印が、よくもまあ、人目に付くよう残ってくれたものだ・・・



60分ツアーの特典は兵舎と弾薬庫(↑)の内部見学だ。
ガイドさんが鍵を開け、中に入ることができる!

どちらも漆喰塗り、当時のままの匂いがするような・・・



(↑)兵舎は、明治時代は畳敷き、
太平洋戦争下ではベッドが据え付けられていた・・・
と聞いたような。(うろおぼえです)

この向かいの山上に第二砲台が築かれている。
兵舎を近くに置くのは、
有事に際し、すぐに出撃できるように、とのことだろう。

当然、兵舎のそばには、お手洗い(↓)もある。



水洗式ではない時代のこと、
排泄物を貯める、いわゆる「肥だめ」(↓)もあった。
後は掃除用具入れなどの倉庫だったらしい。




さらに個人的におもしろかったのは弾薬庫

弾薬庫の中には、砲弾を上野砲台に揚げるための
揚弾井(↓)が築かれている。
同じ仕組みを後のトンネルでも見ることができた。



とりわけ感心したのは、弾薬庫の造り
内部は真っ暗だが、明治の当時は電灯がない、
灯と言えばランプの時代だ。
まさか、火薬のそばに火を置くわけにもいくまい。



そこで、細長い通路のような建物とセットにしたわけだ。
となりの漆喰壁には、何カ所か弾薬庫側に空間(↑)を設け
ここにランプを置き、灯をとったという。
先人の知恵と工夫、すばらしい!



そして、圧巻のトンネル

長さ90m、高さ4.3m、幅4mの総連が造りのトンネルは
道路用としては日本で一番古いものだとか。
このトンネルの西側(ツアーで言うと手前部分)二階(↓)にも
兵舎と弾薬庫があるそうだ。
(さすがに2階は見せてもらえないけれど)



このあたりまでが、明治のこと。

繰り返しになるが、江戸時代の「台場」も明治の「砲台」も
実際に使われることはなかった。

だが、太平洋戦争下では違う。
実際に戦いの場となっている。

・・・本日は、主に明治の史跡めぐりをまとめ、
以下、太平洋戦争時へとつなげたい。


📖参考:
●「国指定史跡『猿島砲台跡』」パンフレット
●斎藤潤『日本の島 産業・戦争遺産』マイナビ出版
******************

おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
見学から少し時間が経ったため、記憶もあやふやで
画像や記事に間違いや勘違いもあるかも知れません。
素人のブログと言うことで、どうぞお許し下さいませ。


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