歴史の足跡

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歴史は語る・平安遷都と蝦夷征伐

2014-10-16 05:44:43 | 例会・催事のお知らせ
三十二、平安(へいあん)遷都(せんと)と蝦夷(えぞ)征伐(せいばつ)

延暦十三年(794)十月二十二日、桓武天皇新京に移る。十一月山背国を山城国に改め、新京を平安京と名付ける。
新京誘致に秦(はた)氏(し)の影響が語られている。そう云えば平安朝には多くの渡来人の活躍を見ることが出来る。桓武天皇の母が高野新笠で渡来人の出自で、長岡京で活躍した種継の母も、蝦夷征伐の坂上田村麻呂も菅原道真も渡来系を祖先に持つ人々であった。
新天地の平安京には新勢力として渡来人の活躍できる土壌が有ったのかも知れない。誘致の提案者は、あの道鏡を追放に尽力をした和気清麻呂が主唱者と言われている。
平城京の時には恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と国民は疲弊しきっていた、今回も長岡京から平安京への遷都に不満を恐れた朝廷の気遣いが有った。回は長岡京から平安遷都は桓武の強い指導力によって国民の同意を得たようであった。
延暦十四年(795)郡臣達は正月には「新京楽、平安楽土、万年春」と言って歌い踊ったと言う。政権の治世は右大臣神王、大納言壱志濃王と言う二人の皇族を中心とした布陣であった。
この頃東北政策はどうであったか、遷都も間にも動きがあった。光仁天皇即位後の宝亀十一年(780)伊治呰麻呂の乱が起き、蝦夷出身の呰麻呂が反乱を起こした。
延暦七年(788)朝廷は陸奥国按察使(みちのくこくあぜち)多治(たじ)宇美(うび)を鎮守将軍に、安倍猿島墨縄を副将軍に任命をした。此の兵の徴発を坂東だけではなく、東海道。東山道他諸国より広く徴発の対象となった。
兵力は五万二千八百人翌月三月に多賀城(たがじょう)集結(しゅうけつ)を目指して膨大な物資の調達と兵站線の確保の基地が設置された。予定通り多賀城に集結した大軍は征夷大使の指揮のもと胆沢を目指して北進をした。
伊治呰(いじあざ)麻呂(まろ)お反乱以来、当地の情報に暗く側道からの襲撃や渡河作戦で多大な被害を被った。地理に熟知していた酋長弖流爲(しゅうちょうあてるい)の作戦に穏弄され、惨憺たる被害に戦意を喪失をしてしまい、帰郷を決意長岡京で天皇に節刀を返上した経緯があった。
桓武天皇は東北作戦では大きな目標を胆沢に置いていた。胆沢の地は豊かな水量と肥沃な土壌で豊かな動力で開墾されて、蝦夷人の別天地であった。
先住民族の蝦夷征伐は後発の大和人に対して必死の抵抗が見られた。そんな誇り高き朝廷軍は敗退は屈辱なことであった。
第二次蝦夷征伐は詳細には分っていないが大伴弟麻呂を征夷整体将軍大将軍として節刀を受け、副将軍に田村麻呂らもとに十万の兵を持って攻めたが大きな成果もなく田村麻呂の奮戦が目立って評価されたが、胆沢は攻略はできなかった。
延暦十年(791)平安京遷都から一年後、坂上田村麻呂を最高責任者として作戦は立てられた。
この時に坂上田村麻呂三十九歳であった。
田村麻呂の家系は東漢と言う有名な帰化人であった。
四代前の老は壬申の乱で大海人皇子方の味方に付いて功績をあげ、その後の家系は坂上家を起こすために奮闘し武人揃いであった。
父苅田(かりた)麻呂(まろ)は藤原仲麻呂も乱に際立った活躍を残し、称徳死後も時勢を読み巧みに家系の活路を見出していった。
苅田麻呂は伊治城を築かれると陸奥鎮守府将軍になり親子二代に渡り蝦夷征伐に参画している。数々の英雄伝説を残した田村麻呂は矢継ぎ早に蝦夷攻略の手を打っていった。
玉造塞と伊治城との間に駅を造ったり、東国の農民を九千人を移住させたりした。阿弖流爲ら酋長のゲリラ戦に次々撃破、伊治呰麻呂の反乱屈辱を晴らすが如く怒濤の如く蝦夷地の別天地胆沢を占領をした。阿弖流為は更に奥地に逃げ込んだ。
この肥沃(ひよく)な胆沢の地に入植させるべく陸奥国府に浮浪人を送らせた。胆沢陥落後しばらく頑固に抵抗していた首長大墓公阿弖流為・盤具公母礼等は配下の五百人を引き連れて田村麻呂に降伏を申し出てきた。
田村麻呂は二人の投降者を平安京に引き連れて帰り、天皇にそのことを報告した。捕虜として引き連れて帰った二人に助命を嘆願したが聞き入れられず、河内の杜山でふたりの首長を斬首にした。
田村麻呂の評価は東北を制圧したことに大将軍として絶賛をした。

★坂上田村麻呂(728~786)奈良時代の武人、坂上苅田麻呂の子。延暦十年(791)蝦夷征伐の為に副使に任命される。成果を上げ昇進し五年後陸奥守、鎮守府将軍を兼務、実質的な陸奥支配の責任者。
797年に征夷大将軍に任命され、戦線を北上させ胆沢城を築城した。多賀城に有った鎮守府をこの地に移転させた。蝦夷の首長阿弖流為・母礼を降伏させた。
これらを伴って平安京に凱旋し、二人の助命を嘆願するが受け入れられず、斬首された。
★阿弖流為(?~802)平安初期の蝦夷の族長。蝦夷討伐軍と戦い強力な抵抗戦を指導し多大な損害を与えた。結果敗北し、母礼と共に500人が降伏し平安京に連行され田村麻呂の助命願いも聞き入れられず河内は枚方市で処刑された。
◆平安京*延暦十三年(794)から形式的には明治二年まで続いた日本帝都。桓武天皇は長岡京から平安京に遷都を決意、藤原葛野麻呂に新京に宅地を班給させた。山背国を山城国に改めて新京、平安京と号した。
◆秦氏*古代の渡来系有力氏族。天武朝に忌寸に改姓し、応神朝に渡来した。秦始皇帝の末裔と称し、朝廷の蔵の管理を司り、大蔵官に任じられた。(一説には百済系、新羅系と言う説もある)

※平安遷都で『平安楽土』と期待をした民衆に公家、貴族は長岡京から平安京に遷都で平穏を願っていたに違いない。奈良時代から平安時代に移っても内外の課題は、東北政策と百済・新羅が大きな課題に変わりはない。
大和朝廷の勢力範囲を北へ北へと北上に平定を急いだようだ。新羅、百済は小康状態の中、国内の政権の皇位継承でつまずきは許されない事情があった。
行政の官僚も奈良から京都へ、仏教も移転を模索、桓武帝は新都、平安京には一定の制限を加え、新時代を切り開こうと思っていただろう。

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