心の自由

被曝を最小限にして命を繋ごう!

【必読】~宮城県から札幌に原発避難した大学生ユウさんの、親への想い~

2014年04月05日 | 記事

 

「だから、自信を持って、堂々としていて欲しい…もう自分を責めないでほしい。」  ~宮城県から札幌に原発避難した大学生ユウさんの、親への想い~    チーム☆OK唯一の大学生メンバー、ユウさんが、親御さんへの想いを綴ってくれました。  ユウさんは母子避難の息子。避難のために、北海道の大学を選び、母と妹と3人で避難して来たそうです。  なかなか語られることのない、「母子避難で連れてこられた子ども」の想いです。    ******    野球は中学校から始めたスポーツだ。  そのまま進学した高校でも硬式野球部に所属し、当時は甲子園優勝を目指して、毎日練習に励んでいた。  練習は厳しく、大変ではあったが、気の置けない仲間たちと過ごす時間は、充実したものであった。    そんな時であった。東日本大震災がおきたのは。    練習中でグラウンドにいた。突然の揺れ、それが5分以上続いた。  すぐに練習は中止され、帰れる者から家路についた。  私は、コンクリートが割れ、水が噴き出す道路に自転車を走らせ、何とか帰宅した。  その後1週間ほどは、毎日自転車で、食料を探す生活だった。    しかしそんな生活も、1~2週間もすればおさまり、復興も進み、元の生活に少しずつ戻っていった。野球部の練習も再開され、いつもの日常が再開しようとしていた。    そんな時、母が突然、意味の分からない、頭のおかしなことを言い出した。  「福島で原発が爆発し、放射線が広範囲に広がっているから、あまり外にでるな」というのだ。    TVや新聞から、福島で原発事故が起こっていることは知っていたが、政府も安全だと言っており、問題はないと思っていた。  どこか遠い、自分とは関係ないところで起きたことだと思っていた。    それなのに、母は外に出るなという。冗談じゃない。明日も明後日も練習があるのだ。  それに、部活の仲間も、監督も、誰も気にしてはいないじゃないか。当然の如く反発。割と強めに言ってやった。これでもう変なことは言ってこないだろう。    しかし、次の日も、そのまた次の日も、母は何度も何度も何度も何度も何度も、私に、「放射能が漏れているから外に出るな、マスクをしろ、食べ物に気を付けろ」と言い続けた。    ああもう、うるさい、私には野球の練習があるのだ。邪魔をするな。  誰一人として気にしていないのに、一人で何を騒いでいるのだ。  そのたびに強く反発し、時には声を荒げたこともあった。  そんな日々が、何か月も続いた。汚染の高い地域への遠征も強行した。  グラウンドを走り回り、野球に打ち込んだ。    頼むから、やっと戻った平和な生活を壊さないでくれ、周りのみんなと一緒に、普通の生活をさせてくれ。  そんなことをいつも考えていた。しかし、母が私に対して、無言になることはなかった。    きっかけはいつだったのか、事故から何か月経ったときだったのか。もう覚えてはいない。  そこまで言うのなら、一度話を「聞いてやろう」ではないか、そんな気持ちではあるが、母の話を正面から受け止めようと思った。    薄々感じてはいたのだ、私はただ、逃げていただけだということを、母の話から。  圧倒的大多数の周囲の人間の影に、隠れていただけだということを。  それに気づくことが出来たのは、母が私に何を言われても、怯むことなく放射能のことを言い続けたからだろう。    ともかく、母の話をじっくり聞いたあとは、自然と放射能のことを認めるようになっていた。  チェルノブイリの話も聞かされたし、放射能の怖さも、懇切丁寧に説明してくれた。  今までの日常は、もう戻ってこないという現実を、受け止めざるを得なかった。  少しでも目を背けようとすれば、母がすかさず現実を突きつけてきた。反発する気力は、もう残っていなかった。    「避難をしよう」。とうとう母は、私が最も恐れていたことを言い出した。  正直それだけは嫌だった。時は高校2年生。後輩もできて、最高に充実していた時だった。    私は母に、避難はもう少し待ってほしいと、「お願い」した。  結果、私が北海道の大学に進学するということで、野球を続けることを「許して」くれた。    私は最後まで野球部に所属し、春の大会で県ベスト8までいくことが出来た。  夏の甲子園予選では敗退してしまったが、最後は最高の仲間と一緒に、笑って引退することが出来た。  一つのことに打ち込むことの意味を学んだ。礼儀や挨拶の大切さを知った。両親が最後まで野球をやらせてくれたおかげだ。本当に感謝している。    そんなわけで、最後まで野球をやらせて貰った私には、ある約束が残されていた。北海道の大学に行くことである。  そして、受験勉強をしながら、今度は私が、周りの人たちに、放射能のことを伝える番だと思った。    しかし、現実は厳しかった。結局誰にも、理解はしてもらえなかったのだ。  特に、3年間共に野球に打ち込んだ仲間にも拒絶されたことは、流石にショックだった。  この辺の気持ちは、避難者の方ならわかると思う。この時初めて、母の気持ちを知ることが出来たのだ。    言う方も辛いのである。  何故なら、被災地で放射能の怖さを認めるということは、今この瞬間も、自分の身体が被爆しているということを、認めるということだからである。    しかし、だからこそ、相手の為を思って言うのであるが、結局変人扱いされ、笑われ、拒否される。  いつしか、放射能のことを周りに言うことを避けるようになった。自分が傷つくくらいなら、言わない方がいい。と言う訳だ。    ここまで傷ついてもなお、言い続けるためには、本気で相手のことを思っていないと出来ないことだと思う。  母はこんな環境で毎日戦っていたのだ。私と妹の為に・・・。    まだ北海道にはたくさんの雪が残っている3月。  私たちは、札幌に避難した。地元に父を残して。ここで、2千字以上書いてからようやく登場した父についても触れよう。    私たち家族の避難を認め、汚染地に残って今も働き続ける父だ。  何度も言うが、被災地において放射能の怖さを認めることは、並大抵のことではない。  ましてや、「家族が避難することを認める」というのは、「自らも被爆していることを認める」ということでもある。    勿論、最初から避難を認めていたわけではない。最初のころは、母と揉めることもかなりあったように思える。  しかし最後は、私たちを笑顔で送りだしてくれた。  今も、被災地に残って、仕事を続けている。私たちの生活を守るために。  父もまた、放射能の恐怖と、戦っているのだ。    以上が、私が避難してきた大体の顛末である。  何度も何度も揉めたが、今の札幌での暮らしを作ってくれた両親には、心から感謝している。  確かに多くのものを失ったが、かわりに札幌の新しい出会いもたくさんあった。  これから、北海道での思い出をたくさん作ることが出来れば、それでよいと思う。    子供は親の背中を見て育つという。本当にその通りだ。  私も、両親の様に、どんな時でも子供のためを想い、子供の命を守るために全力を尽くせる、そんな親になりたいと考えている。自分がどんなに傷ついても、最後まで子供の為に行動する。そんな親に・・・。    北海道に母子避難してきた小さな子供たち、「いのちのことり」風にいうと、「守られた輝く命」たちも、きっと私と同じ気持ちのはずだ。  例え今は、わからなかったとしても、いつか成長したときに、両親に対して感謝する時が必ず来る。私はそう信じている。    だから、自信を持って、堂々としていて欲しい。  これはチーム☆OKだけでなく、原発避難してきた全ての親たちに、私がこの文章を通して、一番伝えたいことだ。  「守られた輝く命」としての言葉だ。    大丈夫、あなたたちが、わたしたちのためを思って、多くのものを失い、苦しみ傷つき、それでも避難を決意し、今もなお、本当にこれでよかったのかと自問自答を繰り返していることは、ちゃんとわかっている。  その背中から、日々感じ取っている。  だから、もう自分を責めないでほしい。    そして、沢山の、笑顔の思い出を、避難先で作って欲しい、一緒に笑って過ごして欲しい。  あなたたちの笑っている顔を、わたしたちも見たいから。    「ありがとう」。今はまだ、恥ずかしくて言えないけれど、大きくなったら、きっと伝えます。  私たちの命を守ってくれた、大切な人たちに・・・。    (ユウ・大学2年生・宮城県から原発避難)    ※写真はユウさんが野球のトレーニングに利用した神社の階段です。    OK☆日記の記事はこちらです。  FB利用していない方にもぜひ、お知らせしてください。  http://teamokjapan.com/news/blog/7409/

「だから、自信を持って、堂々としていて欲しい…もう自分を責めないでほしい。」

~宮城県から札幌に原発避難した大学生ユウさんの、親への想い~

チーム☆OK唯一の大学生メンバー、ユウさんが、親御さんへの想いを綴ってくれました。

ユウさんは母子避難の息子。

避難のために北海道の大学を選び、母と妹と3人で避難して来たそうです。...

なかなか語られることのない、「母子避難で連れてこられた子ども」の想いです。

******

野球は中学校から始めたスポーツだ。

そのまま進学した高校でも硬式野球部に所属し、当時は甲子園優勝を目指して、

毎日練習に励んでいた。

練習は厳しく、大変ではあったが、気の置けない仲間たちと過ごす時間は、充実したものであった。

そんな時であった。東日本大震災がおきたのは。

練習中でグラウンドにいた。突然の揺れ、それが5分以上続いた。

すぐに練習は中止され、帰れる者から家路についた。

私は、コンクリートが割れ、水が噴き出す道路に自転車を走らせ、何とか帰宅した。

その後1週間ほどは、毎日自転車で、食料を探す生活だった。

しかしそんな生活も、1~2週間もすればおさまり、復興も進み、元の生活に少しずつ戻っていった。

球部の練習も再開され、いつもの日常が再開しようとしていた。

そんな時、母が突然、意味の分からない、頭のおかしなことを言い出した。

「福島で原発が爆発し、放射線が広範囲に広がっているから、あまり外にでるな」というのだ。

TVや新聞から、福島で原発事故が起こっていることは知っていたが、政府も安全だと言っており、

問題はないと思っていた。

どこか遠い、自分とは関係ないところで起きたことだと思っていた。

それなのに、母は外に出るなという。冗談じゃない。明日も明後日も練習があるのだ。

それに、部活の仲間も、監督も、誰も気にしてはいないじゃないか。当然の如く反発。

割と強めに言ってやった。これでもう変なことは言ってこないだろう。

しかし、次の日も、そのまた次の日も、母は何度も何度も何度も何度も何度も、私に、

「放射能が漏れているから外に出るな、マスクをしろ、食べ物に気を付けろ」と言い続けた。

ああもう、うるさい、私には野球の練習があるのだ。邪魔をするな。

誰一人として気にしていないのに、一人で何を騒いでいるのだ。

そのたびに強く反発し、時には声を荒げたこともあった。

そんな日々が、何か月も続いた。汚染の高い地域への遠征も強行した。

グラウンドを走り回り、野球に打ち込んだ。

頼むから、やっと戻った平和な生活を壊さないでくれ、周りのみんなと一緒に、普通の生活をさせてくれ。

そんなことをいつも考えていた。しかし、母が私に対して、無言になることはなかった。

きっかけはいつだったのか、事故から何か月経ったときだったのか。もう覚えてはいない。

そこまで言うのなら、一度話を「聞いてやろう」ではないか、そんな気持ちではあるが、母の話を正面から

受け止めようと思った。

薄々感じてはいたのだ、私はただ、逃げていただけだということを、母の話から。

圧倒的大多数の周囲の人間の影に、隠れていただけだということを。

それに気づくことが出来たのは、母が私に何を言われても、怯むことなく放射能のことを言い続けたから

だろう。

ともかく、母の話をじっくり聞いたあとは、自然と放射能のことを認めるようになっていた。

チェルノブイリの話も聞かされたし、放射能の怖さも、懇切丁寧に説明してくれた。

今までの日常は、もう戻ってこないという現実を、受け止めざるを得なかった。

少しでも目を背けようとすれば、母がすかさず現実を突きつけてきた。

反発する気力は、もう残っていなかった。

「避難をしよう」。とうとう母は、私が最も恐れていたことを言い出した。

正直それだけは嫌だった。時は高校2年生。後輩もできて、最高に充実していた時だった。

私は母に、避難はもう少し待ってほしいと、「お願い」した。

結果、私が北海道の大学に進学するということで、野球を続けることを「許して」くれた。

私は最後まで野球部に所属し、春の大会で県ベスト8までいくことが出来た。

夏の甲子園予選では敗退してしまったが、最後は最高の仲間と一緒に、笑って引退することが出来た。

一つのことに打ち込むことの意味を学んだ。礼儀や挨拶の大切さを知った。両親が最後まで野球をやら

せてくれたおかげだ。本当に感謝している。

そんなわけで、最後まで野球をやらせて貰った私には、ある約束が残されていた。

北海道の大学に行くことである。

そして、受験勉強をしながら、今度は私が、周りの人たちに、放射能のことを伝える番だと思った。

しかし、現実は厳しかった。結局誰にも、理解はしてもらえなかったのだ。

特に、3年間共に野球に打ち込んだ仲間にも拒絶されたことは、流石にショックだった。

この辺の気持ちは、避難者の方ならわかると思う。

この時初めて、母の気持ちを知ることが出来たのだ。

言う方も辛いのである。

何故なら、被災地で放射能の怖さを認めるということは、今この瞬間も、自分の身体が被爆しているとい

ことを、認めるということだからである。

しかし、だからこそ、相手の為を思って言うのであるが、結局変人扱いされ、笑われ、拒否される。

いつしか、放射能のことを周りに言うことを避けるようになった。自分が傷つくくらいなら、言わない方が

いい。と言う訳だ。

ここまで傷ついてもなお、言い続けるためには、本気で相手のことを思っていないと出来ないことだと思

う。母はこんな環境で毎日戦っていたのだ。私と妹の為に・・・。

まだ北海道にはたくさんの雪が残っている3月。

私たちは、札幌に避難した。地元に父を残して。ここで、2千字以上書いてからようやく登場した父につ

いても触れよう。

私たち家族の避難を認め、汚染地に残って今も働き続ける父だ。

何度も言うが、被災地において放射能の怖さを認めることは、並大抵のことではない。

ましてや、「家族が避難することを認める」というのは、「自らも被爆していることを認める」ということでも

ある。

勿論、最初から避難を認めていたわけではない。最初のころは、母と揉めることもかなりあったように思

える。

しかし最後は、私たちを笑顔で送りだしてくれた。

今も、被災地に残って、仕事を続けている。私たちの生活を守るために。

父もまた、放射能の恐怖と、戦っているのだ。

以上が、私が避難してきた大体の顛末である。

何度も何度も揉めたが、今の札幌での暮らしを作ってくれた両親には、心から感謝している。

確かに多くのものを失ったが、かわりに札幌の新しい出会いもたくさんあった。

これから、北海道での思い出をたくさん作ることが出来れば、それでよいと思う。

子供は親の背中を見て育つという。本当にその通りだ。

私も、両親の様に、どんな時でも子供のためを想い、子供の命を守るために全力を尽くせる、そんな親に

なりたいと考えている。自分がどんなに傷ついても、最後まで子供の為に行動する。そんな親に・・・。

北海道に母子避難してきた小さな子供たち、「いのちのことり」風にいうと、「守られた輝く命」たちも、き

っと私と同じ気持ちのはずだ。

例え今は、わからなかったとしても、いつか成長したときに、両親に対して感謝する時が必ず来る。

私はそう信じている。

だから、自信を持って、堂々としていて欲しい。

これはチーム☆OKだけでなく、原発避難してきた全ての親たちに、私がこの文章を通して、一番伝えた

いことだ。

「守られた輝く命」としての言葉だ。

大丈夫、あなたたちが、わたしたちのためを思って、多くのものを失い、苦しみ傷つき、それでも避難を

決意し、今もなお、本当にこれでよかったのかと自問自答を繰り返していることは、ちゃんとわかってい


の背中から、日々感じ取っている。

だから、もう自分を責めないでほしい。

そして、沢山の、笑顔の思い出を、避難先で作って欲しい、一緒に笑って過ごして欲しい。

あなたたちの笑っている顔を、わたしたちも見たいから。

「ありがとう」。今はまだ、恥ずかしくて言えないけれど、大きくなったら、きっと伝えます。

私たちの命を守ってくれた、大切な人たちに・・・。

(ユウ・大学2年生・宮城県から原発避難)

 

※写真はユウさんが野球のトレーニングに利用した神社の階段です。

OK☆日記の記事はこちらです。

FB利用していない方にもぜひ、お知らせしてください。

http://teamokjapan.com/news/blog/7409/



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