寶應二年/廣德元年[763年]
◎.正月 程元振は瑱を誣告し、開府儀同三司行兵部尚書同中書門下平章事充山南東道節度觀察處置等使穎國公來瑱を殺した。
各地の軍人達は唐朝に極めて不信感を抱くようになった。この後の吐蕃来寇に際して、各地からの援軍が得られなかったのはこのためである。
◎.3月 山東右兵馬使梁崇義は勇敢で沉毅寡言であり衆心を得ていた。瑱の死後、行軍司馬龐充と左兵馬使李昭が争ったが、結果として崇義を推すことになった。吐蕃に攻撃され混乱していた唐朝は追認するしかなく。崇義を襄州刺史山南東道節度留後→節度使とした。
崇義は瑱を崇拝していて、政堂に瑱の像を祭り、唐朝から自立の傾向を示していた。
大暦九年[774年]
◎.正月 西川崔寧に従わず自立していた澧朗鎮遏使楊猷は揚子江を下り略奪しながら鄂州に至った。また漢江を遡上したため、復州、郢州は籠城し、梁崇義は守備を固めた。
大暦十二年[777年]
◎ 当時、崇義は襄鄧均房復郢六州を領し、兵二萬であり、独立した治政を行っていた。
建中二年[781年]
◎.4月 梁崇義は淄青李正己等と同盟し、唐朝には従順ではなかったが、諸藩鎭の中ではし兵力は少なく弱かった。そのため低姿勢であった。唐朝から入朝を求められたが、崇義は「來瑱様になんの罪があったのか、俺もどうなるかわからない、皇帝は信用できない」と言って拒んでいた。姑息な代宗は引け目もあり討つことが出来なかった。
德宗皇帝になり、隣の淮寧/淮西節度使李希烈はしばしば崇義を討つことを請うたが、宰相楊炎は希烈は信用できないと制止していた。
◎. 德宗は金部員外郎李舟を襄州に派遣し歸順を勧告させたが、諭旨以安之。舟は涇原劉文喜の乱にも派遣され、麾下を煽動して殺させた前歴のある者であったため、崇義は疑っていた。
さらに德宗は崇義を同平章事とし鐵券を与えて歸順を促した。崇義から見れば來瑱を殺した時と同じように思えた。また唐朝は親将藺杲を鄧州刺史とし、勢力分割を図った。
◎.6月 梁崇義は入朝を拒否した。
◎.6月 淮西節度使李希烈を南平郡王に封じ、漢南漢北兵馬招討使として諸道兵を率いて崇義を討たせた。荊南將呉少誠が前鋒となった。
◎.7月 ところが希烈は、雨が続いていると逗留し討伐を始めなかった。宰相盧杞は同僚の楊炎が希烈を誹謗しているからだと讒言し、炎を解任させた。
◎.8月 崇義は先制して荊南江陵を攻めたが大敗して撤退した。
◎. 希烈は諸道兵と崇義を攻め、將翟暉・杜少誠を蠻水に大破して降した。山東軍は淮西軍に比べて極めて弱かった。
◎. たちまち淮西軍は襄州に迫り、窮した崇義は自殺した。
◎.9月 恩賞として希烈は同平章事となったが、希烈は山東を併領するのが望みであった。
唐朝はいち早く有能な河中尹晉絳観察使李承を山南東道節度使として送り込んだ。
希烈は承を追い返そうとしたができず、襄陽を掠奪するだけで引き揚げざるえなかった。なんら実利のない戦闘をさせられ希烈は極めて不満であり、反意を抱いた。
李承は軍府を早期に再建したため、希烈はつけいることができず、かえって淮西軍内部周曾等が承と通じた。