唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使史2

2020-10-07 18:17:51 | Weblog

寶應二年/廣德元年[763年]
◎.正月 程元振は瑱を誣告し、開府儀同三司行兵部尚書同中書門下平章事充山南東道節度觀察處置等使穎國公來瑱を殺した。
各地の軍人達は唐朝に極めて不信感を抱くようになった。この後の吐蕃来寇に際して、各地からの援軍が得られなかったのはこのためである。
◎.3月 山東右兵馬使梁崇義は勇敢で沉毅寡言であり衆心を得ていた。瑱の死後、行軍司馬龐充と左兵馬使李昭が争ったが、結果として崇義を推すことになった。吐蕃に攻撃され混乱していた唐朝は追認するしかなく。崇義を襄州刺史山南東道節度留後→節度使とした。
崇義は瑱を崇拝していて、政堂に瑱の像を祭り、唐朝から自立の傾向を示していた。

大暦九年[774年]
◎.正月 西川崔寧に従わず自立していた澧朗鎮遏使楊猷は揚子江を下り略奪しながら鄂州に至った。また漢江を遡上したため、復州、郢州は籠城し、梁崇義は守備を固めた。

大暦十二年[777年]
◎ 当時、崇義は襄鄧均房復郢六州を領し、兵二萬であり、独立した治政を行っていた。

建中二年[781年]
◎.4月 梁崇義は淄青李正己等と同盟し、唐朝には従順ではなかったが、諸藩鎭の中ではし兵力は少なく弱かった。そのため低姿勢であった。唐朝から入朝を求められたが、崇義は「來瑱様になんの罪があったのか、俺もどうなるかわからない、皇帝は信用できない」と言って拒んでいた。姑息な代宗は引け目もあり討つことが出来なかった。
德宗皇帝になり、隣の淮寧/淮西節度使李希烈はしばしば崇義を討つことを請うたが、宰相楊炎は希烈は信用できないと制止していた。
◎. 德宗は金部員外郎李舟を襄州に派遣し歸順を勧告させたが、諭旨以安之。舟は涇原劉文喜の乱にも派遣され、麾下を煽動して殺させた前歴のある者であったため、崇義は疑っていた。
さらに德宗は崇義を同平章事とし鐵券を与えて歸順を促した。崇義から見れば來瑱を殺した時と同じように思えた。また唐朝は親将藺杲を鄧州刺史とし、勢力分割を図った。
◎.6月 梁崇義は入朝を拒否した。
◎.6月 淮西節度使李希烈を南平郡王に封じ、漢南漢北兵馬招討使として諸道兵を率いて崇義を討たせた。荊南將呉少誠が前鋒となった。
◎.7月 ところが希烈は、雨が続いていると逗留し討伐を始めなかった。宰相盧杞は同僚の楊炎が希烈を誹謗しているからだと讒言し、炎を解任させた。
◎.8月 崇義は先制して荊南江陵を攻めたが大敗して撤退した。
◎. 希烈は諸道兵と崇義を攻め、將翟暉・杜少誠を蠻水に大破して降した。山東軍は淮西軍に比べて極めて弱かった。
◎. たちまち淮西軍は襄州に迫り、窮した崇義は自殺した。
◎.9月 恩賞として希烈は同平章事となったが、希烈は山東を併領するのが望みであった。
唐朝はいち早く有能な河中尹晉絳観察使李承を山南東道節度使として送り込んだ。
希烈は承を追い返そうとしたができず、襄陽を掠奪するだけで引き揚げざるえなかった。なんら実利のない戦闘をさせられ希烈は極めて不満であり、反意を抱いた。
李承は軍府を早期に再建したため、希烈はつけいることができず、かえって淮西軍内部周曾等が承と通じた。
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山南東道節度使史1

2020-10-06 10:00:23 | Weblog
山南東道の中心地は採訪使治所の襄州であるが、初期は南陽郡=鄧州が起点である。

天寶十四年[755年]安禄山が反し南下して東都を陥した。
◎. 文官出身の襄陽太守徐浩は本郡防御使を兼ねたらしい。

天寶十五年/至德元年[756年]
◎.正月 南陽節度使を置き、南陽太守魯炅を任,嶺南、黔中、襄陽の蕃族子弟五萬人を葉北に集めて安祿山軍の南下に備える。
炅は兵学を学び、隴右節度使哥舒翰麾下として右領軍大將軍員外同正員に至る。正月上洛太守兼御史中丞[商州]に任ぜられるが、すぐ南陽太守兼守択防御使へ。尋兼御史大夫,充南陽節度使に昇進。
◎.正月 また襄陽にも防御守捉使が置かれた。
◎. 襄陽大守防禦守捉使徐浩は中書舎人となった。後任の襄陽防御使は文官侍御史崔伯陽であるが実任したかどうかは不明。まもなく河西隴右宣慰使兼御史中丞として転任。
◎. 後任の襄陽太守韓洪は山南東道防御使となったが事跡不明。
◎. その後、文官李峘が襄陽太守となり至徳二年へ
◎.5月 南陽節度使魯炅は滍水南で安祿山將武令珣、畢思琛に敗北し南陽で包囲された。
夷陵太守虢王巨を太僕卿陳留譙郡太守河南節度使とし、嶺南、黔中、南陽節度使魯炅を統御させた。巨は藍田を出て、南陽の包囲を解かせた。
◎.7月 南陽節度使を廃止し、襄陽防禦使を山南東道節度使領襄鄧隋唐安均房金商九州治襄州とした。節度使は魯炅である。
◎.是歳 興平節度使を上洛郡[商州]に置き、金商均房四州を領させた。山東西部を分割したようである。

至德二年[757年]
◎.正月 旧紀では將作少監魏仲犀を為襄陽山南道節度使とする?。襄陽の太守は魏仲犀のようである。魯炅が南陽に籠城しているための代理か?
◎.5月 南陽は安禄山將武令珣、田承嗣に攻められ、食料が不足したため、炅は城を捨てて襄陽に奔った。田承嗣はこれを逐ったが逃走をゆるしてしまった。
◎. 安禄山軍は南陽攻囲に手間取り、荊南方面への南下する機会を失った。

安慶褚軍が京師から敗走し、情勢は大きく変わり、山東からも安禄山軍は撤退していった。
◎.10月 興平軍は武關・上洛郡を回復した。
田承嗣・武令珣等は河北へ奔った。

◎.11月 宰相張鎬は魯炅、來瑱、呉王祗、李嗣業、李奐五節度を率いて河南、河東の郡縣を回復していった。
◎.12月 恩賞として特進太僕卿南陽太守兼禦史大夫權知襄陽事金鄉縣公魯炅は開府儀同三司兼禦史大夫封岐國公仍食實封二百戶。


至徳三年/乾元元年[758年]
◎.3月 旧紀では山南東道、河南、淮南、江南皆置節度使。
◎.9月 庚寅,命朔方郭子儀、淮西魯炅、興平李奐、滑濮許叔冀、鎮西、北庭李嗣業、鄭蔡季廣琛、河南崔光遠七節度使及平盧兵馬使董秦將步騎二十萬討安慶緒
◎.10月 魯炅自陽武濟,季廣琛、崔光遠自酸棗濟,與李嗣業兵皆會子儀于衛州。
◎. 是年.文官王翊が商州刺史から山東節度觀察使となっている。まもなく北蕃宣慰使となったようだが、状況は不明である。

乾元二年[759年]
◎.3月 史思明と李光弼、王思禮、許叔冀、魯炅とが戦い、炅は負傷した。
唐朝軍は史思明に大敗し潰滅した。そのため各軍は撤退した、郭子儀や李光弼・王思禮はまだ軍の体裁をなしていたが、南方の蕃軍の寄せ集めの魯炅軍は剽掠を繰り返す惨めな雑軍となった。
◎.4月 唐朝は当面、陳鄭潁亳節度使を置き魯炅を兼任節度使とする。興平軍節度使李奐兼豫許汝三州節度使とし史思明軍との境界を守らせた。
◎.4月 魯炅は潰軍の状態を恥じて自殺した。
◎.8月 襄州將康楚元・張嘉延が反乱し、襄州刺史王政を逐い、楚元は南楚霸王を自称した。
上使の宦官將軍曹日升が襄州へ行き、康楚元等を慰撫し、王政を饒州長史に左遷して、司農少卿張光奇を襄州刺史とすると通達したが、楚元等は従わなかった。政も光奇も文官であり、魯炅が招集した雑軍を抑えられなかったようである。
◎.9月 張嘉延が荊州を攻撃すると、なんの備えもない文官の荊南節度使杜鴻漸はたちまち敗走し、澧、朗、郢、峽、歸州等の官吏は逃げ惑うありさまであった。
◎.9月 太子少保崔光遠が荊襄等州招討使充山南東道處置兵馬都使として楚元・嘉延を鎮定に向かうことになった。光遠は玄宗逃亡時の京兆尹である。
◎.11月 山東の西部にある商州刺史充荊襄等道租庸使の韋倫は崔光遠の出陣を待たずに独自に出兵し、雑軍である乱軍を蹴散らして鎮定し、楚元を捕らえた。倫は宰相見素の從祖弟。
◎.12月 康楚元が誅され、京兆尹兼御史大夫史翽が襄州刺史充山南東道節度觀察處置等使となった。翽もまた文官である。

乾元三年/上元元年[760年]
◎.4月 襄州將張維瑾・曹玠が反乱し、節度使史翽を殺した。
◎. 一旦は、前乱を平定した隴州刺史韋倫を山南東道節度使として討たせることにしたが、倫が実力者の宦官李輔國のもとに挨拶[贈賄であろう]に来ないので、輔國はたちまち倫を秦州防御使に左遷し、陝西節度使の來瑱を光禄大夫太常卿同正兼禦史大夫襄州刺史充山南東道襄鄧等十州節度觀察處置等使とした。
◎. 武官で威望のある瑱が来ると、乱將たちはたちまち帰順した。ようは規律のない蕃族達が騒ぎ、文官には抑えられなかっただけである。親分格の瑱がくると喜悦して従うのであった。

元年[762年]
◎.建辰月 瑱は山東將士をよく統制し、將士も畏服していた。荊南呂諲や淮西王仲昇は瑱を反乱の気配があると誣告した。そのため肅宗は山東所管十州のうち商金均房四州を分離して武關觀察使を置いた。
◎. 瑱は恨んで、史思明將謝欽讓が淮西王仲升を申州に包囲するのを支援せず放置した。仲昇が降伏すると、瑱の行軍司馬裴戎が節度使を狙って誣告した。。
◎. 瑱は開府儀同三司兼禦史大夫安州刺史充淮西申安蘄黃沔陳鄭穎亳汴曹宋徐泗光壽十六州節度使.封潁國公とされた。一応昇進し領域拡大にみえるがほとんどの領州は史思明領であり、他も荒れ果てている地域であった。戎は瑱に代わって襄鄧等州防御使に任ぜられた。

寶應元年[762年]
◎.5月 來瑱は移鎭を聞くと、將士を扇動して、盛んに宦官李輔國に贈賄し留任を働きかけた。唐朝は姑息で乱を懼れて、瑱を山南東道節度使に復任させた。
◎.6月 襄鄧防御使裴戎は任命を受けて麾下を率いて襄陽に入ろうとしたが、瑱軍の迎撃を受けて敗れて捕らえられた。皇帝に裏切られた戎は乱を起こしたとして殺された。
◎.7月 瑱は襄州より入朝したが、この間に中央では李輔國が失脚し、瑱に恨みを持つ程元振が実権を握って行っていた。
◎.8月 山南東道節度使瑱入朝謝罪,上優待之。
◎.9月 山南東道節度使來瑱為兵部尚書同中書門下平章事,山東節度如故。瑱は使相となり極めて優遇を受けた。これは唐朝の好い加減な政策に対する償いであったと思われる。しかし輔國に対する遠慮もあったのだろう。
◎.10月 代宗は李輔國を殺害する。

寶應二年/廣德元年[763年]
◎.正月 程元振は瑱を誣告し、開府儀同三司行兵部尚書同中書門下平章事充山南東道節度觀察處置等使穎國公來瑱を殺した。
各地の軍人達は唐朝に極めて不信感を抱くようになった。この後の吐蕃来寇に際して、各地からの援軍が得られなかったのはこのためである。
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河陽節度使史4

2020-10-05 10:00:57 | Weblog
乾符元年[874年]
◎. 穆仁裕は乾符2年に検校刑部尚書宣武軍節度使に転じる。
◎.正月 金紫光禄大夫尚書左丞翰林学士承旨鄭延休が檢校禮部尚書河陽節度使となる。

乾符五年[878年]
◎.3月 河陽兵千人が宣武・昭義軍とともに黄巣から東都防衛にあたった。
◎.7月 義成・忠武・昭義軍とともに晉陽へ、沙陀李國昌を防いだ。

乾符六年[879年]
◎.正月 鄭延休は山西節度使へ転じる。

廣明元年[880年]
◎.11月 蔚朔等州諸道行營都招討使李琢[晟の孫.聴の子]が河陽節度使となるが、入れず貶■刺史。
琢は檢校吏部尚書前太常/太僕卿隴西郡開國公三千戸、4月に光祿大夫檢校右僕射御史大夫蔚朔等州招討都統行營節度使となり、沙陀を討った。6月沙陀を破り、7月蔚州を陥した。11月黄巣を討つことを命ぜられた。
◎.11月 神策大将軍羅元杲が河陽節度使となるが、諸葛爽に敗北して行在に遁走。
◎.12月 黄巣は降ってきた夏綏節度使諸葛爽を河陽節度使とした。
爽は汝州防御使から、北面行營副招討として沙陀と戦い、5月振武節度使、10月に夏綏節度使[両方とも赴任せず]となり、11月に河東鄭従讜から黄巣を討つことを命ぜられたが衆寡敵せず降った。

中和元年[881年]
◎.3月 通鑑では前夏綏節度使諸葛爽復自河陽奉表自歸,即以為河陽節度使と帰順しているが、[旧紀]では8月.諸葛爽降賊,偽署爽河陽節度使と誤記している。

中和二年[882年]
◎.正月 宰相王鐸が京師回復をめざして諸道行營都都統權知義成節度使となり、諸葛爽及宣武節度使康實は左・右都統先鋒使となった。
◎.5月 功績により諸葛爽は同平章事となった。使相濫造である。
◎.8月 魏博節度使韓簡は勢力拡大を図り、軍三萬を率いて河陽を攻めた。爽は河陽城を棄てて逃げた。簡が守河橋を確保し、鄆州天平節度使に侵攻した。

中和三年[883年]
◎.2月 魏博節度使韓簡は天平を攻めたが降せない間に、諸葛爽は河陽を回復し、將李罕之は武陟に魏博軍を大破した。敗走した韓簡は部下に殺された。爽が河陽節度使に戻った。

中和四年[884年]
◎.2月 河東節度使李克用は黄巣を討つため南下したが、河陽節度使諸葛爽は河橋が不完であることを理由とし、澤州で阻止した。3月 やむをえず克用は河中で渡河した。

光啓二年[886年]
◎.10月 河陽節度使諸葛爽は卒し、大將劉經と張全義は爽の子仲方を留後とした。
◎.12月 將劉經と張全義・李罕之の間で内紛が起こり相い攻め合ったが、黄巣に附いた蔡州秦宗權の將孫儒が来寇し河陽を陥し、仲方は汴州に逃れ、將李罕之は澤州に、張全義は懷州に籠もった。

光啓三年[887年]
◎.5月 孫儒は秦賢が孝村で朱全忠等に大敗したことを聞き、河陽を屠して焼き払って去った。舊將李罕之が澤州より来て河陽を、懷州刺史張全義が洛陽を回収した。

文德元年[888年]
◎.4月 河南尹張全義は懸命に荒廃した東都を再建していたが、李罕之は流賊上がりのいいかげんさで掠奪で生計を立て、全義領も荒らした。がまんできなくなった全義は河陽を襲撃し、罕之を澤州に逐った。
◎.7月 澤州刺史李罕之は河東李克用の兵を率いて河陽を攻撃した。危機に瀕した全義は、克用と不仲の宣武節度朱全忠に懇願して支援を求めた。そこで全忠將丁會が来援し罕之を破った。罕之は澤州に戻り克用の麾下となり、全義は東都に戻り全忠の麾下となった。河陽留後として丁會が入った。

龍紀元年[889年]
◎. 河陽留後は全忠將張宗厚→朱崇節となったもよう。

大順元年[890年]
◎.5月 克用麾下の昭義留後李克恭が乱殺され、全忠は河陽留後朱崇節を潞州に入れて權知留後とした。克用は康君立・李存孝に包囲させた。
◎.7月 全忠將葛従周等が潞州に入った、
◎.9月 全忠軍は潞州から敗走し朱崇節は河陽に戻ったようだ。特進検校司徒兼御史大夫河陽節度使.沛縣子五百戸となったか?。

大順二年[891年]
◎.8月 李克用が懷孟州に来寇。
◎. 河陽節度使は朱崇節から趙克裕に代わったようだ。いずれも全忠麾下の交代である。

景福元年[892年]
◎.5月 河南尹張全義は兼檢校司徒同平章事兼孟州刺史充河陽三城節度孟懷澤觀察等使。趙克裕は左遷されたようである。

乾寧元年[894年]
◎. この頃の河陽留後は侯言。当時河東李克用は全盛で全忠はこの方面では守りを固めるだけだった。

光化元年[898年]
◎. 全忠は武寧・天平・泰寧の三鎭を平定し、將丁會を河陽留後に送り込んだ。

光化二年[899年]
◎.正月 留後丁會は檢校司徒孟州刺史河陽節度使となった。元年12月に克用麾下の李罕之が反して潞州を占拠し全忠に附き、この月に昭義節度使として任命それに連れる。
◎.3月 河陽節度使丁會は澤州を陥した。
◎.5月 李克用軍が潞州李罕之を攻めた。全忠は河陽に進み、張存敬・丁會を派遣して撃退した。
◎.6月 疾が重い昭義節度使檢校太尉兼太師侍中潞州大都督府長史隴西郡公三千戸李罕之を孟州刺史充河陽三城節度孟懷觀察等使として、檢校司徒孟州刺史河陽節度使丁會を澤潞等節度使に交代させた。李罕之は懷州まで来たがそこで死んだ。
◎.8月 克用軍が澤潞二州を奪回した。
◎.8月 全忠は澤州を河陽からはずし、河南府の王屋、清河、鞏三縣を河陽節度に領させた。

光化三年[900年]
◎.10月 克用將李嗣昭は幽州劉仁恭を支援するため、懷州を陥し河陽に迫った。留後侯言は狼狽したが、佑国軍將閻寶が力戰して撃退した。

光化四年/天復元年[901年]
◎.閏6月 検校司徒河陽節度丁會を潞州大都督府長史昭義節度等使とし、昭義節度等使孟遷[3月に全忠軍に攻められ潞州をもって降っていた]を檢校司徒為河陽節度使とした。
裏切り常習の孟遷はまもなく全忠に殺された。
河陽節度から澤州を削るといことがまた書かれている。

天祐元年[904年]
◎.5月 河陽節度使張漢瑜に加同平章事。漢瑜については詳細不明だが、沁州刺史として特進.縣男を与えられている勅がある。

天祐二年[905年]
◎.3月 降伏していた前平盧軍節度使檢校太傅同平章事兼青州刺史琅邪郡公二千五百戸王師範を孟州刺史河陽三城懷孟節度觀察等使に移す、もちろん実権はない。後梁に入って右金吾上将軍となり、開平2年[908年]、朱友寧敗死の恨みから族滅される。

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河陽節度使史3

2020-10-04 10:00:11 | Weblog
宝暦二年[826年]
◎. 宏禮は病により辞したが、再び太和元年正月に検校戸部尚書兼御史大夫華州刺史潼関防御鎭国軍使任用された。
◎.5月 検校工部尚書涇原節度使楊元卿が河陽三城懷州節度使となった。元卿は淮西の幕僚から帰順した能吏。

太和三年[829年]
◎. 何進滔が魏博で自立した時、自給して舉軍出討を請願し加檢校司空。二十萬石を軍費に献納する。

大和五年[831年]
◎.8月 河陽三城懷州節度使楊元卿は光禄大夫に進み宣武軍節度使に遷った。宣武李逢吉は東都留守となり、検校戸部尚書兼御史大夫東都留守溫造[字簡輿]が河陽三城懷州節度使になる循環人事であった。造は幕僚出身の能吏で、7月に東都留守になったばかりであった。

大和七年[833年]
◎.6月 河陽修防口堰,役工四萬,溉濟源、河内、溫縣、武德、武陟五縣田五千餘頃。

大和八年[834年]
◎.11月 前河陽節度使溫造は御史大夫となり、左金吾衛大將軍蕭洪為河陽三城節度使となった。洪は文宗皇帝の母蕭太后の弟と称して任用された者でした。

大和九年[835年]
◎.10月 前河陽節度使蕭洪為鄜坊節度使へ転任。
◎. 朔方靈鹽節度使李泳が赴任。長安出身の商人上がりで、宦官へ贈賄しての売官です。

開成二年[837年]
◎.6月 河陽軍亂,逐節度使李泳。収奪が過ぎた泳は二子を殺され、懷州へ遁走しました。貶澧州長史。
◎. 武官の左金吾衛將軍李執方が河陽三城懷州節度使として鎮圧します。9月にやっと鎮定できました。

會昌三年[843年]
◎. 李執方が義武軍節度使へ転出しました。
◎.4月 忠武節度使王茂元為河陽節度使,棲曜の子。武家の出身だが政治的将軍である。
◎.5月 昭義節度使劉従諫が卒し、甥稹の自立したため、征討が始まりました。これは強硬派の李徳裕と、従諫に恨みを持つ宦官勢力の意向です。茂元は步騎三千を以って萬善を守りました。
◎.6月 兵馬使馬繼等を天井關南科斗店へ派して、劉稹軍と対峙しました。
◎.8月 茂元は萬善を守っていましたが、劉稹軍に押されていました。
◎.9月 しかし茂元は病気であり、忠武軍節度王宰[智興の子]が兼河陽行營攻討使として両軍を指揮した。まもなく茂元は卒した。贈司徒。
◎.9月 河南尹敬昕を河陽節度懷孟觀察使とし、王宰軍に兵糧を供給させました。
◎. 方鎭表では.復置河陽節度徒治孟州。なにを今頃という所ですが、東都五縣を正式の孟州にしたのです。。

會昌四年[844年]
◎.3月 劉稹攻討使王宰が逗留して進まないので、義成節度使劉沔[河東節度使から転任してまもない]を精兵三千を率いさせて河陽節度使にしました。敬昕の行方は?です。
◎.8月 劉稹が殺され昭義は平定されました。
◎.9月 忠武軍節度陳許蔡等州觀察處置等使河陽行營諸軍招討使金紫光祿大夫檢校右僕射兼御史大夫太原郡開國公二千戸王宰は檢校司空太原尹北都留守充河東節度管内觀察處置等使となり兼任は解けました。
◎.12月 検校司空河陽節度使劉沔は忠武節度使へ転任した。後任の河陽節度使は劉稹討伐の最大功労者檢校兵部尚書河中節度使石雄です。雄は王宰とは智興以来の犬猿の仲です。
◎. 河陽三城節度使は澤州を増領され、河陽懷孟澤為節度使と改称した。

會昌五年[845年]
◎.7月 昭義兵が乱を起こし、石雄は澤州に進み守りました。

會昌六年[846年]
◎. 石雄は鳳翔節度使へ転任し、文官の太子賓客分司李珏が檢校吏部尚書河陽節度使となりました。

大中三年[849年]
◎.10月頃 李珏は吏部尚書となり、文官の検校左常侍浙東觀察使李拭が朝請大夫檢校禮部尚書孟州刺史河陽三城節度使となりました。

大中四年[850年]
◎.9月 李拭は檢校禮部尚書太原尹北都留守河東節度等使へ転任しました。河東節度使諸道行営招討党項使王宰と交代です。黨項平定の失敗のためでしょう。

大中七年[853年]
◎.この頃 王宰は辞して太子少保分司となりました。
八年頃、文官の前嶺南節度使紇干臬が河陽節度使となり、10年頃まで継続した。

大中十一年[857年]
◎.正月 宰相になれないので不満な朝散大夫守京兆尹扶風縣男三百戸韋澳が檢校工部尚書孟州刺史御史大夫充河陽三城節度孟懷澤觀處置等使となった。

大中十三年[859年]
◎. 韋澳が淄青平盧節度使に転じた。

n 咸通1~2 の 河陽節度使は不明

咸通三年[862年]
◎.8月以降 浙東で仇甫の乱を平定し、徐州で横暴な牙軍を誅殺した、銀青光禄大夫襲魏郡開國公二千戸検校工部尚書徐州刺史御史大夫充武寧軍節度徐泗宿濠等州観察處置等使王式が河陽節度使とになった、咸通5年までは在任した。

n 咸通6~9 の 河陽節度使は不明

咸通十年[869年]
◎.是年 戸部侍郎判度支崔彥昭が中散大夫檢校禮部尚書孟州刺史兼御史大夫河陽三城節度孟懷澤觀察使となる。

咸通十一年[870年]
◎.正月 崔彥昭は金紫光祿大夫檢校刑部尚書太原尹北都留守河東節度觀察等使となった。
◎.この歳 前任不明の穆仁裕が河陽節度使となる。
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河陽節度使史2

2020-10-03 10:00:03 | Weblog
永貞元年[805年]
◎.2月 河陽三城行軍司馬元韶が懷州刺史河陽懷州節度使に昇進した。
德宗末からの姑息な節度使人事の典型である。まず行軍司馬とし、軍内の異論がなければ昇進させる。憲宗より中央からの直轄人事が行われるようになった。
◎.9月 河陽三城節度使元韶卒。陳州刺史兼御史大夫孟元陽が検校尚書兼御史大夫懷州刺史河陽三城孟懷節度使となった。
「孟」州とあるが河陽が孟州になったのははるかに後の會昌三年[843年]である。
元陽は忠武軍節度曲環に將とされ、営田等に極めて有能。環の没後の吳少誠の来寇を撃退し陳州刺史。韓全義の敗戦を終始の功績があり、加御史大夫。

元和五年[810年]
◎.4月 昭義節度使盧従史は、王承宗と内通していたとして捕らえられ、それを執行した昭義都知兵馬使潞州左司馬烏重胤は懷州刺史河陽三城懷州節度使に昇進し、河陽節度使孟元陽は潞州長史昭義軍節度澤潞磁邢洺觀察使となった。重胤を昭義節度という案もあったが、牙軍との癒着を懼れた宰相李絳はあえて転任させた。張掖郡公。

元和九年[814年]
◎.閏8月 河陽節度使烏重胤は懷州刺史から汝州刺史河陽懷汝節度使へとなり移治した。
元和7年8月魏博節度田季安が卒し、幼少の懷諫が嗣いだが、牙軍は一族の都知兵馬使田興を擁立した。興[賜名され弘正]は唐朝に従う姿勢を見せ、河北の情勢は唐朝に有利に傾いた。憲宗は対魏博防衛のために黄河の北、懷州に配置されていた河陽軍を、対淮西征討のために南の汝州を河陽節度に加えて移し、弘正を信任していることを表明した。

元和十年[815年]
◎.11月 李光顏、烏重胤敗淮西兵于小殷水,拔其城。

元和十一年[816年]
◎.4月 李光顏、烏重胤奏敗淮西兵于陵雲柵,斬首三千級。
◎.5月 李光顏、烏重胤奏敗淮西兵于陵去柵,斬首二千餘級。
◎.9月 李光顏、烏重胤奏拔呉元濟陵雲柵。
対淮西征討の主戦線である陵雲柵では、諸軍の中で忠武李光顏と河陽烏重胤だけがまともに戦っていた。しかし董重質に率いられた淮西軍は強く、遅々とした戦果しか挙がらなかった。

元和十二年[817年]
◎.8月 李光顏、烏重胤與淮西戰,癸亥,敗于賈店。
進展しない淮西征討を督戦するために宰相裴度が彰義節度使仍充淮西宣慰招討處置使として自ら赴任してきた。しかし淮西軍の奇襲により遁走する体たらくであった。
◎.10月 主戦線で両軍が対峙する中、側面から唐隋鄧節度使李愬が淮西治所の蔡州を奇襲し呉元濟を捕らえ、淮西軍は降伏した。
◎.11月 重胤は検校右僕射から檢校司空。進邠國公。淮西戦役の恩賞である。

元和十三年[818年]
◎.5月 河陽都知兵馬使曹華が棣州刺史となり赴任し、商河県を回復し、橫海節度副使を兼任した。
◎.6月 重胤は汝州から懷州に復治した。方鎭表では汝州は東都に戻されたようである。淮西征討が終了し、再び成徳など対河北が重視されるようになった。
◎.11月 河陽節度使鳥重胤を鄭權に代えて滄州刺史橫海軍節度滄景德棣觀察等使とする。
華州刺史令狐楚が懷州刺史充河陽三城懷孟節度使となる。
重胤は河陽の精兵三千を率いて横海に向かったが、兵は移鎭を好まず途中で潰乱して戻り、賊になろうとした。楚は慰撫して復軍させた。

元和十四年[819年]
◎.7月 河陽三城懷州節度使朝議郎使持節懷州諸軍事守懷州刺史兼御史大夫賜紫金魚袋令狐楚を朝議大夫中書侍郎同中書門下平章事として宰相となる。
楚は宰相皇甫鎛と同年進士合格で親しく、程异没後の補任として推薦された。
◎.前黔中觀察使魏義通が懷州刺史河陽三城懷孟節度使となる。

元和十五年[820年]
◎.10月 左金吾將軍兼御史大夫田布為檢校左散騎常侍兼懷州刺史御史大夫充河陽三城懷孟節度使。魏義通は右龍武統軍へ。
成徳節度使が王承元により唐朝に主権が返され、布の父魏博田弘正は成徳節度使となり、魏博へは唐朝から昭義節度使李愬が入った。布の赴任は弘正への信任を示すものである。

長慶元年[821年]
◎.正月 河陽懷節度使田布と涇州刺史充四鎮北庭行營涇原節度使なり、刑部尚書兼司農卿郭釗が檢校戸部尚書懷州刺史充河陽三城懷節度使となった。
釗は郭子儀の孫で、穆宗皇帝の義父にあたる。誠実だが凡才である。

長慶二年[822年]
◎.8月 東都留守陳楚を検校左僕射兼御史大夫河陽懷節度使。郭釗は9月河中尹兼河中絳隰等州節度使へ。
7月、宣武節度使李愿が放逐され、軍才のない郭釗では到底対応できなかった。またあわてて7月に陳楚を東都留守に任命したが、留守への武官就任は例がないと指摘されたため急遽移動した。楚は義武節度使張茂昭の甥で、茂昭と共に帰朝した武将。

長慶三年[823年]
◎.2月 陳楚は治所を河陽三城に移したが、門戟がないため懷州の門戟を移した。
[門戟とは邸宅・城門等に格を示すために戟を並べたとあるが?、日本の藩校にあるような戟門の意味か?]
◎.病により辞し右龍武/羽林統軍となって、この歳に卒した。61歳。贈司空。
◎ 崔宏禮/弘禮が河南尹兼御史大夫東都畿汝州都防御副使より河陽節度使に。宏禮は進士出身で使府幕僚を歴任し有能果断なため宣武軍乱に対処するため河南尹となっていた。
◎ 河內の用水路を作り、開田千頃,歲收八萬斛。また軍備を充実する実績を上げた。
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河陽節度使史1

2020-10-02 10:00:29 | Weblog

河陽は河北から東都への黄河の渡河点という要地である。安史の乱後、懷・衛州や河陽は相衛節度[薛嵩]の所管となっていた。節度使が置かれるのは割合遅い。

大暦六年[771年]
◎.8月 東都副留守常休明が檢校左散騎常侍河陽三城使となった。
大暦8年2月相衛節度使薛嵩が卒するが、それ以前から河陽はその管轄を離れていたようである。

大暦十年[775年]
◎.2月 河陽三城使常休明は苛刻少恩で人望がなかった。防秋[対吐蕃防衛助力のために關内へ派遣]者が歸軍した慰労時に蜂起して、休明を東都に逐った。乱兵は兵馬使王惟恭を帥として略奪行為をした、唐朝は監軍冉庭蘭に慰撫させた。魏博田承嗣が使嗾したようである。
◎.4月 詔河東、鎮冀、幽州、淄青、淮西、滑毫、汴宋、澤潞、河陽道出師進討田承嗣。
出兵する余裕があったかどうか。
◎.5月 淮西節度李忠臣統永平、河陽、懷、澤步騎四萬進攻衛州。
一応は従って出動したようですが。
◎.10月 商州刺史馬燧が檢校左散騎常侍河陽三城使となります。
燧[字洵美]は兵法を学び、李抱玉幕僚から鄭州・商州刺史となり能政で聞こえていた。

大暦十一年[776年]
◎.2月 乱を起こしても処罰がないのに味を占めたまた河陽軍はまた乱し略奪します。さすがに今回は、監軍使冉廷蘭は乱兵を誅殺します。
◎.8月 命淮西李忠臣、滑州李勉、河陽馬燧三鎮兵討李靈耀。
汴宋田神玉が卒した後、將李靈曜が自立しました。魏博田承嗣の討伐が完了しない間にまた征討です。
◎.10月 淮西、河陽之師合擊田悅營,其衆大敗,悅脫身北走。
李忠臣と馬燧は霊耀を支援しにきた魏博將田悦を大破しました。霊耀は自殺し、汴宋は平定されました。この後、燧は忠臣と功を争わず避退しています。

大暦十三年[778年]
◎.3月 河陽將士劫回紇輜重,因與相鬥,縱兵大掠,久之方定。
安史の乱以来唐を助けた回紇は傲慢で、この頃各地で衝突を起こしてきました。河陽を通過しようとした回紇使者も横暴であったため、怒った軍士はその貨財を略奪します。それにとどまらず略奪は広がったようです。

大歷十四年[779年]
◎.閏5月 河陽三城鎮遏使馬燧は檢校工部尚書兼太原尹御史大夫北都留守河東節度使に栄転し、陳州刺史李芃が檢校太常少卿河陽三城鎮遏使となります。
回紇に百井で敗北した河東軍はガタガタになっています。その再建のために馬燧が起用されました。李芃[字茂初]は永平節度李勉の幕僚として江・亳州刺史を有能でしたので起用されました。芃は練達で兵の給養を整備し鎭を安定させました。

建中二年[781年]
◎.正月 成徳節度使李寶臣が卒し、子惟岳が自立するという事態が生じ、魏博節度使田悦もまた反抗的な態度を見せていた。東都の防衛のための処置として、軍才のある東都留守東都畿観察使路嗣恭を懷鄭汝陝四州河陽三城節度使とした。河陽三城鎮遏使李芃は副となった。
◎.5月 懷鄭河陽節度副使李芃を河陽三城懷州節度使「懷衛節度使」とし、懷州・東都畿五縣及衛州をもってその管轄とした。但し衛州は実質的には魏博領有である。
◎.7月 淄青平盧節度使李正己が卒し、子の納が自立した。魏博・成徳・淄青軍が洹水に合同したため、河東馬燧は諸軍を率いて対峙し、河陽李芃にも合流を求めた。

建中三年[782年]
◎.正月 河陽軍は新鄉、共城県を陥し、衛州を攻め、田悅守將任履虛は一旦降ったが、すぐ反した。
◎.正月 河東・澤潞軍と共に洹水に田悦を大破した。
◎.5月 戦勝の功績により芃は檢校兵部尚書となった。實封百戶。

建中四年[783年]
◎.2月 懷州から河陽三城へ河陽軍節度を移した。一応所領は懷衛+河陽である。

興元元年[784年]
◎.閏月 河北の節度は螟蝗害により饑饉が起こり,楚州の米三萬石を支給された。
◎.この歳 李芃に加検校尚書右僕射。

貞元元年[785年]
◎.5月 河陽都知兵馬使雍希顏が河陽懷都團練使兼御史大夫となった。疾により芃が辞めた河陽節度使は都団練使に格下げされた。希顏の終任は不明[貞元4と推定]である。
◎.7月 前河陽節度使檢校左/右僕射開陽/開封郡王李芃は東都で卒した。64歳。贈太子太保。

貞元四年[788年]
◎.10月 右神策將軍兼御史中丞李長榮が河陽三城懷州團練使となり,賜名元淳。

貞元十一年[795年]
◎.6月 河陽獻白烏。

貞元十二年[796年]
◎.是歳 方鎭表によると河陽懷都団練使は節度使に復した。治は河のまま。李元淳が節度使。長期在任の元淳の格上げであろう。封は狄道縣子→祁連郡王。

貞元十五年[799年]
◎.3月 昭義軍節度使王虔休が卒したため。検校工部尚書兼御史大夫河陽三城節度使李元淳を潞州長史昭義軍節度澤潞磁邢洺觀察使とし、河陽節度押衙衡濟を懷州刺史河陽三城懷州節度使となった。この頃から懷州に治所が移っている?。

貞元十六年[800年]
◎.正月 成徳・義武・忠武軍兵と共に河陽軍は淮西を征討したが敗退した。

貞元二十年[804年]
◎.7月 節度使衡濟が卒した。
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淄青平盧軍節度使史5

2020-10-01 10:00:55 | Weblog
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中和元年[西暦881年]
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◎.旧紀では10月 青州軍亂,逐節度使安師儒,立其行營將王敬武為留後。
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中和二年
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◎.通鑑9月 平盧大將王敬武逐節度使安師儒,自為留後。
◎.通鑑10月 平盧大將王敬武を留後として認めた。敬武は当初黄巣に帰服したが、都統の王鐸は判官諫議大夫張濬を行かせて帰順させた。
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龍紀元年[西暦889年]
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◎.10月 平盧節度使王敬武が卒した。敬武はいつごろか平章事を加えられているらしい。子の師範は16歳だが継承した。しかし棣州刺史張蟾は従わず、唐朝に上申して太子少師崔安潛を兼侍中充平盧節度使として棣州に迎え入れ、師範と戦った。
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大順二年[西暦891年]
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◎.師範は都指揮使盧弘に張蟾を攻撃させたが、弘は従わず自立しようとした。師範は小校劉鄩に弘を殺害させ、自ら棣州を攻めて蟾を殺し、安潜を追い返した。師範は平盧節度使となった。
師範は学問・禮儀を好み、恭謙であった。
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乾寧二年[西暦895年]
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◎.方鎭表では齊州に武粛軍防御使を分置したとある。
これは齊州刺史朱瓊が州を以って朱全忠についたことからだが、瓊は泰寧朱瑾の從父兄であり、このこのろ齊州は天平か泰寧の管轄であっのではないだろうか。瓊はすぐ瑾に殺害され、弟の玭が齊州防御使となった。
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乾寧五年/光化元年[西暦898年]
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◎.正月、師範に加同平章事
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光化二年
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◎.10月 朱瑾麾下の沂・密州が朱全忠に附いた。危機感を感じた師範は淮南楊行密に支援を求め、行密は台濛、王綰を派して密州を陥し、沂州を攻めた。
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光化四年/天復元年[西暦901年]
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◎.この歳、齊州防御使が廃止されたが、淄青に返還されたようではないようだ。天復三年に師範の弟師魯が齊州を包囲したが敗れている。
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天復二年[西暦902年]
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◎.3月 淮南楊行密の所に亡命してきた前泰寧軍節度使朱瑾が領淄青節度使なる。単なる形式である。
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天復三年
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◎.正月 師範は好学の徒で、唐朝への忠誠心を持っていた。朱全忠により昭宗が鳳翔[李茂貞]に包囲され危機にあることを憂い、諸將を偽装させ汴、徐、兗、鄆、齊、沂、河南、孟、滑、河中、陝、虢、華等州で蜂起させた。大半は失敗したが行軍司馬劉鄩は兗州を奪取した。
◎.朱全忠は大きく動揺したが、この時点では既に鳳翔は落城寸前であり、全忠は茂貞を滅ぼさず、赦して昭宗を引き渡させるだけで反転することになった。
◎.3月 師範は弟師魯に齊州を囲ませていたが、全忠將朱友寧は撃退し、葛従周と共に兗州を囲んだ。
友寧はさらに青州を攻め、全忠は自ら兵十萬を率いて来攻した。
◎.4月 楊行密將王茂章が七千で来援してきた。別に宿州を攻めたが撃退された。
◎.5月 朱友寧は博昌・臨淄を陥し、青、登、萊州を攻撃した。
◎.6月 淮南將王茂章と師範弟萊州刺史師誨は密州を陥した。
◎.6月 淄青淮南軍は全忠の嫡子友寧を敗死させた。驚愕した全忠は兵二十萬を率いて急行してきた。
◎.7月 王茂章は全忠軍と激戦するが撤退。全忠軍は密州を回復する。
◎.9月 全忠將楊師厚が臨朐で師範軍を大破する。
◎.10月 全忠將劉重霸が棣州を陥す。
◎.9月 師範は全忠に降る。全忠は李茂貞軍が京師奪回に迫っているためこれを赦し、師範を權淄青留後とするが全州は諸将を分置し抑えた。
◎.10月 兗州を占拠していた師範將劉鄩が命を受けて降る。全忠は鄩を元從都押牙/元帥府都押衙權知鄜州留後事として用いる。
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天復四年/天祐元年[西暦904年]
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◎.? 福建節度使王審知の一族廷/延彬が領淄青節度使となる。形式である。
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天祐二年
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◎.正月 全忠麾下李振が知青州事→留後となり王師範は大梁に移される。
◎.3月 前平盧軍節度使檢校太傅同平章事兼青州刺史琅邪郡公食邑二千五百戸王師範を孟州刺史河陽三城懷孟節度觀察等使に移す。
◎.? 全忠將検校司空潁州刺史王重師が検校司徒淄青節度使/留後となる。
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天祐三年[西暦906年]
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◎.6月 朱全忠は元京師=長安が茂貞との境界にあるため、信用の出来ない降將京兆尹佑國節度使韓建を淄青節度使へ,親將淄青節度使王重師を京兆尹佑國節度使同平章事とし交代させる。
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天祐四年
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◎.唐は滅亡し、淄青は後梁[朱全忠]の領土となりました。

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