唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

(番外)河北三鎭 その6.河北の残照-1

2013-03-03 11:17:12 | Weblog
會昌以降乾符まで唐と河北三鎭の関係は共存期に入り、唐朝はなんらの回復も試みておらず、三鎭側も反抗的な態度を示していない。會昌年間には回紇滅亡後の処理に幽州と唐朝は協力してあたり、昭義節度劉愼の討伐に関しては成徳や魏博は参戦している。また咸通年間の徐州龐の乱では魏博は派兵し、成徳は軍資を提供する状況であり、ほぼ体制内の組織となった。
しかし唐末(廣明元年12月の黄巣による京師制圧以降)にはそれぞれの動きを示す。
1.魏博 節度使韓簡は勢力拡大を謀り、渡河点の河陽を制圧し、黄河対岸の天平を攻撃したが敗北し牙軍の信頼を失い、樂彥禎に奪位された。やがて彥禎も牙軍に殺され、羅弘信が擁立された。すでに老朽化したその軍は、新たに勃興した李克用・朱全忠らに敗北を重ねる状況であった。弘信を嗣いだ紹威は全忠の協力を得て、牙軍を潰滅させたが、弱体化し全忠の麾下に入るしかなかった。
2.成徳 王氏一族が世襲し、唐末には貴族化した景崇・鎔が君臨した。当然として軍は弱く、李克用等の侵攻に際しては常に幽州の支援を仰いだ。幽州の支援が得られなくなると全忠の支配下に入った。
3.義昌(横海) 盧彥威が自立していたが、さしたる活動をせず、やがて幽州劉仁恭に滅ぼされ、子の守文が入った。全忠の北伐にはなんとか耐えていたが、父仁恭が兄に監禁されると全忠の麾下に入った。