・邠寧と共に京師に近い大藩である鳳翔を得た茂貞は朝政に介入し、景福元年[892年]
には失脚し山西に逃れた宦官楊復恭を伐つこと志願した。もちろん勢力拡大のためであり、
唐朝はなかなかゆるさなかったが強行した。
・11月には興元を陥し山西各州を勝手に勢力下とした。
・そのため景福二年[893年]唐朝は茂貞を山西・武定節度使に転任させ、宰相徐彦若を
赴任させたが討伐軍はもろくも潰滅した。そして宰相杜譲能を殺して既得権を認めさせた。
・乾寧元年[894年]にも茂貞は京師に侵攻
・乾寧二年[895年]5月にも邠寧王行瑜・鎭国韓建とともに侵攻し宰相韋昭度を殺した
そのため昭宗皇帝は河東李克用に頼った。
・7月克用は大挙侵攻し、韓建は降り、行瑜は敗北し誅された。茂貞はひたすら謝罪して
赦免を受けた。克用は茂貞を伐つことを求めたが昭宗皇帝は勢力均衡を図って残すこととした。
には失脚し山西に逃れた宦官楊復恭を伐つこと志願した。もちろん勢力拡大のためであり、
唐朝はなかなかゆるさなかったが強行した。
・11月には興元を陥し山西各州を勝手に勢力下とした。
・そのため景福二年[893年]唐朝は茂貞を山西・武定節度使に転任させ、宰相徐彦若を
赴任させたが討伐軍はもろくも潰滅した。そして宰相杜譲能を殺して既得権を認めさせた。
・乾寧元年[894年]にも茂貞は京師に侵攻
・乾寧二年[895年]5月にも邠寧王行瑜・鎭国韓建とともに侵攻し宰相韋昭度を殺した
そのため昭宗皇帝は河東李克用に頼った。
・7月克用は大挙侵攻し、韓建は降り、行瑜は敗北し誅された。茂貞はひたすら謝罪して
赦免を受けた。克用は茂貞を伐つことを求めたが昭宗皇帝は勢力均衡を図って残すこととした。
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