唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魯炅伝

2019-02-28 11:43:01 | Weblog
嶺南・雲南の雑軍を率いて安禄山軍の南下を防ぐという功績をあげたが
雑軍のゆえに崩壊し、その責を感じて自殺した將軍。

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魯炅伝
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炅は幽州范陽の人。

長身で,書史学習に励んだ。

蔭位で左羽林長上になった。

天寶六年,隴右節度使哥舒翰の配下となり、評価される。

吐蕃と戦い石堡城・河曲で功績があり,左武衛将軍、右領軍大將軍同正員賜紫金魚袋に進む。

十三年.討擊副使として加雲麾將軍。

安祿山の乱に將帥として起用され。十五載正月.上洛太守。
すぐ南陽太守本郡守捉防御使移った.封金鄉縣公。

ついで兼御史大夫充山南/南陽節度使となり、嶺南黔中山東兵五萬を率いて安禄山軍の南下を防いだ。

五月,賊將武令珣、畢思琛等が来寇し、炅軍は敗走したが南陽は保った。
嶺南節度使何履光、黔中節度使趙國珍、襄陽太守徐浩は来援しなかった。

武令珣・田承嗣等が南陽を一年にわたって包囲した。
穎川太守來瑱、襄陽太守魏仲犀が来援したが敗北し、南陽の食が尽きた。

至德二年五月.援軍も食もなく窮した炅は兵を率いて襄陽へ奔った。

特進太僕卿南陽太守兼御史大夫權知襄陽節度事上柱國/襄鄧十州節度使。に任じられた。
敗北はしたが賊軍の南下を防ぐ功績は大きかった。

十月.唐朝軍は兩京を奪還し、承嗣、令珣等は敗走した。

十二月.功績により開府儀同三司兼御史大夫封岐國公食實封二百戶兼京兆尹となった。

乾元元年.兼鄭州刺史充鄭陳穎亳等州節度使。

上元二年.為淮西襄陽節度使、鄧州刺史。

乾元元年十月.郭子儀、李光弼等九節度とともに安慶緒を相州に攻めた。
淮西襄陽節度行營の兵萬人、馬軍三百を率いていた。

乾元二年三月.史思明に大敗し、炅は負傷し敗走した。
敗軍の中でも蛮族が多く、規律のない炅軍は最も見苦しい状況で、敗走中も略奪暴行を重ねた。

四月.徙鄭陳亳節度使。
処罰はされなかったが炅は兵の醜態を恥じて自殺した。五十七歳であった。

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