唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀三~五年 西暦629~631

2020-05-11 10:04:24 | Weblog
貞觀三年 西暦629
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正月、沙門法雅坐妖言誅。司空裴寂嘗聞其言,辛未,寂坐免官,遣還鄉里。
目障りな建国の功臣裴寂に、根拠薄弱な言いがかりをつけて排除した。

四月乙亥,太上皇徙居於大安宮。
宮の名称を変更しただけである。

八月丁亥,李靖,以伐突厥。
十一月庚申,李世勣,柴紹,任城郡王道宗,衛孝節,薛萬淑,以伐突厥。
勢力拡大中の薛延陀と同盟した。疲弊している突厥は盟約を求めたが、太宗は攻撃することにした。
突厥の突利可汗[前可汗始畢の子]が頡利と対立した入朝してきた。

貞觀四年 西暦630
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二月甲辰,李靖及突厥戰於陰山,敗之。
三月甲午,李靖俘突厥頡利可汗以獻。
李靖は頡利可汗を攻撃し、狼狽した頡利可汗は和約を求めた。そこで唐朝は唐儉を使節として交渉させたが、靖はその油断をついて攻撃し頡利を捕らえた。太宗の悪い癖だが、大功績を上げた武将に嫉妬し、失態を弾劾させ、太宗がこれを赦すという猿芝居をこの時も靖に行った。増長させまいと言うつもりかもしれないが。

四月戊戌,西北君長請上號為「天可汗」。
突厥帝国が滅亡したので薛延陀やその他諸部の酋長は太宗に北邊の皇帝となることを請うた。中国本土+北邊に君臨することになった。

四月戊戌,上御順天樓,盛陳文物,引見頡利。
武德九年の臣従の恥を晴らしたわけである。

貞觀五年 西暦631
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正月甲戌,宴高昌王文泰及群臣。
西域より高昌王が入朝し、西部への拡大路線が検討された。

八月戊申,殺大理丞張蘊古。
太宗は、狂人に対する処罰に反対した蘊古を激怒して殺した。

九月上修仁壽宮,更命曰九成宮。又將修洛陽宮。
突厥に勝ち。太宗にも驕りが生じたが、まだこの時点では諫言を受入れる度量があった。

十二月己亥,朝集使利州都督武士獲等復上表請封禪,不許。
太宗は多額の費用がかかる封禪[山東の泰山に行き、天を祀る儀式]を望み、指嗾して上表させた。一応自分にはまだ徳がないと辞退するのが慣例である。

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