唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

振武[しんぶ]節度使の歴史

2018-10-21 19:35:38 | Weblog
①.乾元元年[758]置振武節度押藩落使,領鎮北大都護府、麟勝二州。
②.上元二年[761]廢關內節度使,罷麟勝隸振武節度
③.寶應元年[762]振武節度增領鎮北大都護府,以鎮北隸朔方
④.廣徳二年[764]罷河中、振武節度,以所管七州隸朔方。

黄河屈曲部の北邊の地に朔方節度使から分離した方鎭ですが、
初期節度使は不明です。
初期より朔方節度使郭子儀の統合下にありました。

⑤.大暦十四年[779]析置河中、振武、邠寧節度,振武節度復領鎮北大都護府及綏銀二州東中二受降城
郭子儀が太尉に祭り上げられ、所領は分割され、配下の渾瑊が一時振武軍節度使となりますが、すぐ召還され。また朔方節度使の統合下に戻ります。
張光晟等の振武軍使・留後が在任しました。
光晟は横暴な回紇の使節を虐殺する事件を起こしました。

建中二年[781]光晟を継いだ振武軍使彭令芳は軍士に苛虐であったため、監軍と共に殺されました。
汾州刺史王翃が後任として抑えましたが特段の処罰はありません。

貞元二年以降、唐朝臣等の武将出身の専任の節度使が配置されるようになりました。

⑥.貞元十二年[796]東中二受降城隸天德軍
天徳軍都防禦使設立によります。

元和八年[813]節度使李進賢は軍士を虐待したため軍乱が起き殺されました。憲宗皇帝はこれを赦さず、夏綏節度使張煦に河東の援軍を与えて叛者を誅殺しました。しかしその後実情を知り慰撫することに。

その後も武将出身の節度使が乾符年間までは赴任しましたが、
現地は回鶻・沙陀・吐谷渾など蕃族が盤踞する地域であり、
節度使も李國昌(沙陀)や契苾璋(回鶻)などが任ぜられるようになりました。

景福二年[894]以降は沙陀出身の河東節度使李克用の支配下になり、その将(石善友等)が占有することになりました。

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