①.貞元三年[787]置夏州節度觀察處置押蕃落使,領綏、鹽二州,其後罷領鹽州。
吐蕃防禦のため夏州に左羽林大将軍韓潭が屯し、夏綏銀三州を管轄しました。
しかし銀州は城郭もなく、度支からの供給による軍事基地としての色彩が強いものでした。
韓潭のあとは貞元十四年[798]神策軍より宦官勢力と結託した韓全義が夏鹽綏銀節度使となりました。
全義は十六年[800]に蔡州行營招討使として淮西吳少誠を討ちますが敗北し逃げ帰りました。
暗愚な德宗皇帝は宦官にごまかされ処罰はされませんでした。
鹽州は誤記でしょう。
永貞元年[805]德宗が崩じると、処罰を怖れた全義は入朝し致仕しました。空気を読めない甥の楊惠琳は自立しようとしましたが討たれて誅された。
○.元和八年[813]鹽州隸夏州。自夏州至豐州,初置八驛。
鹽州はこの前後とも朔方に属しており、この旧紀の記載は誤りでしょう。
②.元和九年[814]夏州節度增領宥州
寶應[762]後廃止されていた宥州が経略軍に復置されました。
これは吐蕃から黨項を守るためでした。
しかし宥州は十五年[820]に吐蕃に陥され、また長慶四年[824]節度使李祐により復されました。
吐蕃の侵攻が絶えない辺境であり、神策系の武将が赴任する方鎭でした。
③.長慶四年[824]節度使李祐、塞外築烏延。宥州。臨塞。陰河。陶子等五城。
④.大和七年[833]以銀州刺史領銀川監牧使。
⑤.開成三年[838]夏州節度使領採造供軍、銀川監牧使。
二年七月節度使劉源が銀州監牧使等も管轄することを請願し認められました。
⑥.大中十年[856]夏州節度使增領撫平党項等使
夏州付近は黨項が盤踞し、中和年間以降は拓抜氏[賜姓され李氏]の支配下になりました。
李思恭-思諫-成慶と世襲していきます。
⑦.中和二年[882]夏州節度賜號定難節度
拓抜思恭は京師回復を援助した功績により賜姓され、夏州付近を与えられました。そして五代から西夏王国へと続いていきます。
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