唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博 何進滔の乱

2023-01-21 08:40:41 | Weblog
魏博節度使史憲誠は半朝廷派で、いやいやながら自立した横海李同捷の征討に加わっていました。
息子の唐[孝章]は名の通り朝廷べったりで、風見鶏的な父を諫言し朝廷に従わせていたからです。

大和2年3月
史憲誠は子の副大使唐と都知兵馬使亓志紹に兵二萬五千を率いさせ德州[李同捷]を討たせました。唐の強請によるものです。

大和2年7/8月
魏博軍は平原を攻め、武寧王智興は棣州を陥します。さすがに同捷と成徳王廷湊は危機感を感じ、亓志紹を裏切らせるよう働きかけました。

太和2年12月
行營都知兵馬使亓志紹は所部二萬人と謀叛し、魏州を襲い史憲誠父子を殺して自立しようとしました。

太和3年正月
憲誠は救援を求め、朝廷軍の義成李聽等は志紹軍を破り、志紹は成徳へ逃亡しました。

鎮定はできたとはいえ、魏博牙軍はすぐ乱を起こし、憲誠の地位は不安定なのままでした。すっかり嫌になった憲誠は朝廷に節度使を返上しようとしました。

太和3年6月
憲誠は河中節度使へ、魏博節度は分割され魏博は義成節度使李聽が、相衛澶三州は分離され史孝章が節度使となることが発令されました。

これを知った牙軍は怒り、李聽がなかなか赴任しないのに乗じて憲誠を殺害し、魏博衙内都知兵馬使何進韜を擁立しました。

太和3年7月
進韜達は魏博の分割を認めず、李聽を迎撃し大破しました。聽は遁走し昭義軍に救助されました。

太和3年8月
同捷の乱を平定したばかりの朝廷は余力なく、進滔を魏博節度使とし、相衛澶三州を戻しました。

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