唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐初功臣傳26 李/羅藝

2024-05-30 10:13:55 | Weblog
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李/羅藝 字子廷/子延
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父榮は隋監門將軍。

冷酷で勇敢であり、大業末に虎賁郎將となり対高麗征討に参加した。

上官の留守右武衛大將軍督李景と対立していた。

全国に盗賊が起こり、涿郡には対高麗戦用の物資が山積していた。
その資財のため周囲の賊の侵攻を受け、留守將趙什住、賀蘭誼、晉文衍等は対処できなかった。
しかし藝は常に出撃して賊を破り諸將に懼れられていた。

藝は反意があり、出撃した麾下の兵に対して「我々は功績があるのに報いがない,物資は沢山あるのに留守が独占して自分用としているのだ」と告げ、士卒に不満を抱かせた。

大業十二年十二月
藝は帰還して郡丞を捕らえて城に突入した。諸将はその勢いに懼れて従った。
倉庫を開き戰士に賞賜し、貧民に賑給したので大いに民意を得た。
渤海太守唐禕等逆らう者は殺し、柳城、懷遠郡は歸附し、柳城郡を得て太守楊林甫を捕らえ、襄平太守鄧皓を營州總管[柳城郡]とし、幽州總管を自称した。

江都で隋煬帝を弑逆した宇文化及は北上し藝を招いたが、「隋臣として逆賊には従えない」と拒否した。

竇建德・高開道も招いたが「建德・開道は賊だ、關中で自立している唐に従おう」と決めた。

武德元年十二月
漁陽、上谷等諸郡を以って張道源の山東宣撫に従い幽州總管に任ぜられた。

二年十月
封燕郡王食邑五千戸となり賜姓し皇族の屬籍に入れられた。

竇建德を衡水に破った。

三年五月
竇建德將高士興が来攻するが大破した。

三年十月
竇建德は大軍をもってまた来攻したが撃退した。
高開道が救援にて唐に帰属することになった。

三年十二月
竇建德軍を籠火城に破った。

四年九月
劉黑闥を征討するため淮安王神通が關内兵を率いて冀州に来た。藝は南下して合同した。
しかし饒陽城南で黑闥に大敗した。藝も大敗し將薛萬均、萬徹も一時捕らえられた。
藝はその後幽州に退却した。

四年十一月
幽州は飢饉で、高開道の援助を受けていたが、情勢をみて開道は突厥・劉黑闥に附くことにした。
そして易州を攻め、將謝稜は懷戎で藝軍を破った。

五年正月
秦王世民が黑闥征討に派遣され、藝軍數萬も会同し、劉十善[黑闥弟]・張君立軍を鼓城に大破した。

二月/十二月
黑闥の定、欒、廉、趙四州を陥し、黑闥尚書劉希道を捕らえ、世民と洺州に會した。

三月
世民とともに黑闥と洺水の南に対峙した。

六年二月
黑闥が平定され、藝は入朝し左翊衛大將軍となった。

七年六月
皇太子建成に附き、密かに幽州兵を東宮衛士に加え高祖の怒りをかった。
秦王世民[太宗]とは合わず、その麾下を殴打するなどとの問題があった。

八年六月
華亭縣及彈箏峽に屯し突厥の侵攻に備えた。右武衛大將軍?

九年十月
食實封一千二百戸を賜った。

貞觀元年正月
世民[太宗]が皇太子建成を殺して自立し、建成と親しかった藝は不安であった。
当時、開府儀同三司本官領天節軍將軍として突厥防禦のために涇州に屯していた。

軍を集合させ入朝すると称して豳[邠]州に籠もったが、征討軍が来ると聞いて治中趙慈皓と統軍楊岌が反し、慈皓は捕らえたが、岌に攻められて敗れ、妻子を棄てて突厥に奔るが寧州で部下に殺された。

弟利州都督壽も誅された。


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