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鄭元璹/元鑄 字德芳
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隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。
累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。
李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。
義寧二年/武德元年二月
太常卿として商洛,南陽を平定した。
武德元年八月
襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。
軍旅の事や軍法に通じていた。
十/十二月
鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。
武徳二年
突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。
四年四月
突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順德が捕まった。
武德五年三月
高祖が頡利可汗と通婚することで和約し帰還できた。
鴻臚卿となったが,母喪のため免。
武德五年八月
突厥の太原侵攻時に喪中であるが起用されて「突厥と唐はお互いの土地を得ても利益にならない、掠奪は部下の利益になるだけだ。和約して金品を得れば可汗の直接の利益になる」と説いて帰還させた。
太宗は「侵攻が止まったのはあなたの功績だ」と賞賛した。
六年九月
邛州獠が反しため討った。
貞觀元年/三年
また突厥に使いして「突厥は衰亡している攻めるべき時だと」進言した。その後唐は突厥ほ滅ぼした。
貞觀三年
南會州都督として黨項羌を招諭した。
左武侯大將軍となったが、坐事除名。
貞觀十七年
宜州刺史に起用された。復沛國公
貞觀十八年十一月
老をもって致仕した。太宗の高麗遠征に反対した。
義母に孝行でなかったと批判されていた。
貞觀二十年
卒,贈幽州刺史,諡曰簡。
鄭元璹/元鑄 字德芳
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隋沛國公譯子。賢明で文藝に優れていた。父の功により儀同襲沛國公。
累遷して右衛將軍,莘國公に代わる。大業末に文城郡守となる。
李淵[高祖]反し、將張綸が文城を陥し捕らえられるが、名門の出なので赦され太常卿となる。
義寧二年/武德元年二月
太常卿として商洛,南陽を平定した。
武德元年八月
襄武王琛と突厥始畢可汗に使いして、帰還後、參旗將軍となった。
軍旅の事や軍法に通じていた。
十/十二月
鄭元璹は步騎一萬を率いて南陽賊帥朱粲を商/浙州に破った。
武徳二年
突厥處羅可汗に侵攻を止めるよう説いたが受入れられず。處羅が急死しため、置毒を疑われて抑留された。
四年四月
突厥寇并州,漢陽郡王瑗、鄭元璹、長孫順德が捕まった。
武德五年三月
高祖が頡利可汗と通婚することで和約し帰還できた。
鴻臚卿となったが,母喪のため免。
武德五年八月
突厥の太原侵攻時に喪中であるが起用されて「突厥と唐はお互いの土地を得ても利益にならない、掠奪は部下の利益になるだけだ。和約して金品を得れば可汗の直接の利益になる」と説いて帰還させた。
太宗は「侵攻が止まったのはあなたの功績だ」と賞賛した。
六年九月
邛州獠が反しため討った。
貞觀元年/三年
また突厥に使いして「突厥は衰亡している攻めるべき時だと」進言した。その後唐は突厥ほ滅ぼした。
貞觀三年
南會州都督として黨項羌を招諭した。
左武侯大將軍となったが、坐事除名。
貞觀十七年
宜州刺史に起用された。復沛國公
貞觀十八年十一月
老をもって致仕した。太宗の高麗遠征に反対した。
義母に孝行でなかったと批判されていた。
貞觀二十年
卒,贈幽州刺史,諡曰簡。
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