唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

瀘州 楊子琳/楊猷 

2022-11-18 08:20:23 | Weblog
子琳は雄武の才があり法規に従わず独断専行する人物でした。

永泰元年閏10月
中央より赴任した右僕射劍南節度使郭英乂と、前使嚴武の寵將崔旰[寧]とに紛争が起き、山岳戦に長じた旰が英乂を破り、英乂は敗走して殺されました。

邛州牙將柏茂琳、瀘州牙將楊子琳、劍州牙將李昌夔は旰を伐つとして蜂起しました。
子琳は元瀘南賊帥で帰順して將となっていたのです。

大暦元年8月
劍南副元帥杜鴻漸は旰を伐つことが出来ず、ひたすら慰撫して唐朝への帰属を求め、旰もまた鴻漸に媚びて西川節度の地位を求めました。

鴻漸は他の諸将を宥めめ、各州の刺史とし、子琳も瀘州刺史となりました。

大暦3年4月
西川節度使になった崔寧[旰]が京師に入朝した隙に、瀘州刺史楊子琳は數千を率いて成都へ突入し、留守崔寬[寧の弟]を逐い占拠しました。唐朝はあわてて寧を西川に戻しました。

大暦3年7月
崔寬は寧の妾任氏の協力を得て子琳を破り、成都府を収復しました。子琳は瀘州へ逃げ戻りました。

大暦4年2月
子琳は瀘州で蠻族など数千人を集め、揚子江を下り、涪州守捉使王守仙軍を撃破し、夔州を陥し、別駕張忠を殺しました。荊南節度使衛伯玉は懼れて夔州占拠を許可しました。
幕僚の劉昌裔は子琳に朝廷への帰順を勧め、子琳は峽州團練使に任ぜられました。


子琳移澧州刺史澧朗兩州鎮遏使

大曆5年4月
湖南崔瓘が兵馬使臧玠に殺されたため、灃州刺史楊子琳等に玠を伐たせましが、子琳は玠の贈賄を受けて戻りました。

大暦6年4月
灃州刺史兼御史中丞子琳は入朝し、名を猷と賜名されました。

大暦9年正月
灃朗鎮遏使灃州刺史楊猷は勝手に揚子江を下り鄂州に至り、また溯上して、復、郢、襄等州を脅かしました。山南東道節度使梁崇義は防衛につとめました。

大暦9年3月
灃州刺史澧朗鎮遏使楊猷を洮州刺史隴右節度兵馬使とし、対吐蕃防衛に任用しました。

大暦9年5月
猷は澧州より入朝しました。

  その後の猷の記録はありません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 魏博 田悅の乱 2 | トップ | 宣武 李介*の乱 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事