唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十三年 西暦 818 和暦 弘仁9年 2

2020-02-16 10:01:19 | Weblog
五月丙申,忠武節度使李光顏が義成節度使へ転任
 淄青征討の準備である。淮西軍を加えて最強の忠武軍を率いての移動。

六月丁丑,河陽烏重胤が懷州刺史,鎮河陽に復する。
 淮西戦役が終了し、淄青征討時の渡河点の治安のための転任。

七月癸未,山東李愬が武寧軍節度使に転任
 淄青侵攻のため徐州に配置。旧淮西将董重質も愬の願いにより任用。

七月乙酉,宣武、魏博、義成、武寧、河陽、橫海軍討李師道。
 淄青李師道は暗愚で頑迷であり、この時点になっても自軍が唐朝に対抗
 できると思っていた。また妻女は子を京師に送ることを拒否した。
 準備万端の憲宗は淄青討滅を下命し、諸軍は勇躍して侵攻した。
 総大将は魏博田弘正であり、全軍を率いて出陣した。

七月辛丑李夷簡罷。
 李鄘の代わりに宰相となった李夷簡は役にたたずすぐ転出。

八月壬子,宰相王涯が免ぜられた。
九月甲辰,判度支皇甫鎛,塩鉄使程异が宰相となった。
 財政官僚の交代である。より有能[収奪に長けている]二人が任用
 された。裴度や崔群達は阻止しようとしたが、憲宗は強行した。

九月、淮西戦では観望していた宣武韓弘は、全軍を率いて曹州を囲んだ。

十一月、魏博田弘正は渡河し、義成李光顔と共に、鄆州に迫った。

十二月、魏博・義成軍は淄青軍を大破した。
    武寧李愬も連勝し、金鄉県を抜いた。
 包囲網が完成し、危機的な状況にも関わらず、幕僚は頑愚な師道
 を懼れて直言できなかった。

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