唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十四年 西暦 819 和暦 弘仁十年

2020-02-17 10:01:36 | Weblog
正月辛已,韓弘は考城を陥し、李聽は沐陽を降し、李愬は魚台を抜いた。
 ゴールの見えた戦いであり、従来の緩慢さと違い諸軍は本気で功績を争った。

正月丙申,田弘正は淄青軍を東阿、陽谷に大破した。

二月、淄青軍を率いていた劉悟が反し、李師道を殺した。
 師道は悟に主力軍を率いさせ、魏博・義成軍と対峙させていた。
 悟は勝ち目が無いと判断し逡巡していたが、師道からの解任命令を受けて決意
 し鄆州城を襲撃し師道一族を殺し、帰順した。正己-納-師古-師道と四代に渡る
 高麗李氏は滅亡した。

二月己巳,淄青十二州を、淄青齊登來棣五州、鄆曹濮三州、兗海沂密四州の三道に分けた。
 統治を浸透させるため巨大藩鎭を分割した。徴税と官吏任命権が回収された。
 唐末まで三道は唐朝の領域として継続した。

 劉悟は義成節度使に任命された。
 悟は師道の跡を継承できると思っていたが、憲宗はそんな事は許さず他地へ転
 任させた。悟は落胆したが、田弘正の大軍を前にしてあきらめ赴任した。

三月,馬總が鄆曹濮節度使。薛平が淄青齊登萊節度使、王遂が沂海兗密觀察使となった。
 總[有能な行政官]平[忠順な軍人]遂[収奪に長けた財務官僚]という取り合わせ
 である。
 
橫海節度使烏重胤が節度使の管轄を本州牙軍のみとし、支州の軍事力は州刺史のものとすることを上奏して認可された。
 当然軍人重胤の考えではなく、憲宗や中央官僚の代弁である。節度使の力はこれに
 より大きく削減され。中長期的には、徹底できなかった河北三鎮以外は大きな反乱
 を起こす力はなくなっていった。

◎淮西・淄青の制圧により唐朝は安定期に入った。以降河北三鎮等が反旗を翻しても、
 単なる地方の乱であり、唐朝の命運を左右する程のものではなくなった。

四月丙子,宰相裴度が河東節度使に出された。
 用済みの強硬派の排除である。憲宗にとっては財政再建と吐蕃征討が主題になっ
 てきた。度は功績が大きいため、門下侍郎平章事が付帯である。

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