唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

長慶二年 西暦821年

2020-07-03 10:00:26 | Weblog
長慶二年 西暦821年
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長慶二年正月庚子,魏博軍潰於南宮。魏博節度使田布自殺,兵馬使史憲誠自稱留後。
河北三鎭のうちで唐朝方に残った魏博節度使は、李愬が疾辭[まもなく卒]したあと田弘正の子布がついだが、軍を掌握できませんでした。それでも無理に征討に出ましたが牙軍は従わず、憲誠を押し立てて退却しました。布は責任を感じて自殺しました。唐朝はどうしようもなく憲誠の自立を認めました。これにより憲宗が努力した自立藩鎭の統制がわずか二年で崩壊します。

二月甲子,赦成德王廷湊。
ついに廷湊まで自立をゆるすしか有りません。

二月辛巳,宰相崔植罷。
対処の方策なく無能な植は辞任します。

二月戊子,昭義軍節度使劉悟囚其監軍使劉承偕。
悟もまた唐朝の指示を舐めきって従わなくなります。

三月乙巳,武寧軍節度副使王智興逐其節度使崔群。
徐州武寧軍でも智興が自立します。ドミノ倒しです。

三月戊午,裴度を宰相とし、王播を淮南節度使に戻します。
単なる文官の裴度を押したてても対処の方法は立ちません。

四月壬戌,成德軍節度使牛元翼奔于京師,王廷湊陷深州。
深州に籠城し唐朝方に残っていた元翼が、廷湊の包囲が緩んだ隙に脱出させてもらいました。山東節度使に移ります。

六月癸亥,宣武軍宿直將李臣則逐其節度使李愿,衙門都將李介反。
淮南からの漕運の要地である汴州宣武軍にも反乱が起きました。節度使李愿[晟の長子です、愬と違って軍才はありません]の失政ですが、さすがに唐朝もこの地を失うわけにはいかず必死になります。

六月甲子,裴度、元稹罷。兵部尚書李逢吉為門下侍郎、同中書門下平章事。
裴度と元稹が争い両者とも陥れられて罷免されました。
牛李の党争の端緒となる逢吉が宦官達の支持を得て登用されました。

七月丙辰,兗鄆節度使曹華,忠武軍節度使李光顏討之。
八月壬申,宣武軍節度使韓充又敗之于郭橋。
唐朝は総力を挙げて征討します。汴州を失うと財政的にやっていけなくなります。
韓充は宣武軍節度使に君臨していた弘の弟で、軍内に人望がありました。興味深いのは自分も自立した武寧軍節度王智興も討伐に協力していることです。自分に影響が及ばないようにと言う賢明な立ち回りでしょう。介の乱は周囲に支援する藩鎮がなく意外にスムーズに鎮圧できました。以降宣武軍はおとなしくなります。

九月戊子,鎮海軍將王國清謀反,伏誅。丙申,德州軍亂,殺其刺史王稷。
動乱の余波は続きます。

十月己卯,獵於咸陽。十一月庚午,皇太后幸華清宮。癸酉,迎皇太后,遂獵於驪山。
馬鹿な穆宗達はまだ遊んでいます。華清宮は温泉です。

十二月宦者擊球于禁中,有宦者墜馬,上驚,因得風疾,不能履地。
癸巳,立景王湛為皇太子。
穆宗は事故のショックから重度の体調不良になります。官僚はこれさいわいとすぐ長男を皇太子[敬宗]を立てることを建議し押し切ります。でもこの景王がまた大変な少年です。


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