唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

湖南都団練観察處置使(欽化軍・武安軍節度使)と軍乱

2014-10-08 22:49:42 | Weblog
湖南観察使は揚子江以南に位置し、東は江西、北は鄂岳・荊南、西は黔中、南は嶺東・桂管に囲まれる。唐代に置いては内地で
はあるが開発は進まず、特に南部に置いては蠻族が群居する不安定な地域で会った。牙軍といえるほどのものはなく、軍には蠻
族の首領が將として任用されている。

①.大暦5年(770)四月湖南兵馬使臧玠が觀察使崔灌を殺す
 崔瓘は清廉で有能であったが、当時の湖南軍は規律がゆるみ横暴で有り、給与のことで下僚と争い軍乱を起こした。
近隣の諸州より派兵し鎮圧させようとしたが、諸州の將も腐敗し兵も同様に弛緩しており簡単に鎮圧できなかった。
そこで羽林大将軍辛京杲を派遣した。京杲は鎮圧に成功したが、極めて貪婪・強暴であった。

②.大暦5年~建中元年(780) 湖南將王國良反し西原蠻と寇州縣
 観察使辛京杲は、蛮族出身の將王國良の財産を奪うために冤罪を負わせて刑に堕とそうとした。それに抗した國良は、
意に反して西原蠻と通じて反した。その後建中元年まで鎮圧できず、新観察使嗣曹王皐は身を挺してこれを慰撫し帰順させた
(國良は維新と賜名された)

③.大中12年(858)5月湖南軍亂,都將石載順等逐其觀察使韓
 4月嶺南、5月湖南、6月江西、7月容管、8月宣歙と連鎖型に波及した軍乱である。諸管区とも観察使以下が軍人の給与を
削減し、私物化するか中央への献金にあてていたため不満が爆発したもので、相互の連絡などはなく早期に鎮圧された。

④.乾符5年(878)3月湖南軍亂、都將高傑逐觀察使崔瑾
 流賊王仙芝が江西を陥し、与党が湖南各地を荒らし回っていた。その鎮圧に弱体な軍が酷使されたこによる不満とみられる。
都統王鐸は先鋒李係を大軍と共に湖南に入れた。

⑤.乾符6年(879)10月黄巣陥湖南
名将李晟の末である前泰寧節度使係は兵法に通じていたが、実戦では無能で、5万の兵と共に潭州に屯していたが、
流賊黄巣の急襲を受けてたちまち潰滅し遁走した。

⑥.中和元年(881)12月江西將閔勖戍湖南,還,過潭州,逐觀察使李裕,自為留後。
 黄巣の乱ですっかり軍紀の弛緩した唐朝では、文官の使を逐い自立することが横行した。以降は軍人どうしの争闘になる。

⑦.光啓2年(886)6月淮西將黃皓殺欽化軍節度使閔頊。衡州刺史周岳陷潭州,自稱節度使。
 蛮族出身の周岳が、流賊あがりの黃皓に閔頊を殺させて自立

⑧.景福2年(893)12月邵州刺史處訥陷潭州,欽化軍節度使周岳死之,處訥自稱留後。
 閔頊の部下處訥が周岳を伐ち自立

⑨.乾寧元年(894)5月孫儒將劉建鋒、馬殷陷潭州,武安軍節度使處訥死之,建鋒自稱留後。
 淮南を荒らしていた故孫儒の敗残軍が湖南に乱入し、備えができなかった處訥を殺して占拠した。

⑩.乾寧3年(896)4月武安軍亂,殺其節度使劉建峰,其將馬殷自稱留後。
 建峰は部下の妻女を姦したことを怨まれて殺害された。 後任に馬殷が擁立された。
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