唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

開元十七~十九年  西暦729~31年

2020-07-25 10:00:06 | Weblog
開元十七年  西暦729年
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二月丁卯,巂州都督張守素破西南蠻,拔昆明及鹽城,殺獲萬人。
三月瓜州都督張守珪、沙州刺史賈師順擊吐蕃大同軍,大破之。
三月甲寅,朔方節度使信安王禕攻吐蕃石堡城,拔之。
唐軍が連続して勝利を収めました。特に石堡城[現在の青海省湟源県日月郷石城山]は要衝で、河西隴右支配を左右する拠点です。以降吐蕃は全力をあげて回復をめざし、唐軍と激戦を続けます。

六月甲戌,源乾曜、杜暹、李元紘罷紘。宇文融,裴光庭為同中書門下平章事
暹と元紘は争って事ごとに異同を申し立て、乾曜は観望するという状況でした。財政に知識のある融と光庭が登用されてきました。

九月壬子,宇文融坐貶汝州刺史,凡為相百日而罷。
融は全力で財政再建に努めました。それは官僚・貴族層の既得権を大きく侵害するものでしたので抵抗は大きく、官僚達は偽造錢による混乱を言い立て、軍功ある信安郡王を誣告したとの理由で失脚させてしまいました。国家の利益と貴族層の利益が対立したわけです。さらに官僚達は融に収賄の罪をきせて流罪にし殺しました。それだけ自分達の利を侵されたことへの憎しみが強かったのでしょう。玄宗としては「お前達がいろいろ言うから融を却けたが、国庫は空っぽのままじゃないか」と嫌みをいうのがせいぜいでした。

開元十八年  西暦730年
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正月辛卯,裴光庭為侍中。
執政は光庭です。彼も融とは違う方向[人事操作で行政効率を上げる]で財政再建に努めます。

四月乙卯,築京師外郭。

五月己酉,奚、契丹附於突厥。
契丹の実権者可突干を冷遇したことから、帰服していた奚、契丹が反しました。

六月丙子,忠王濬為河北道行軍元帥。
九月丁巳,忠王濬兼河東道諸軍元帥。
忠王は名前ばかりで、出陣のまねごとをしただけです。

開元十九年  西暦731年
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正月,殺瀼州別駕王毛仲。
内外閒廄監牧都使王毛仲は、玄宗即位前からの武装奴隷で、極めて信任が厚く、太平公主の乱にも活躍し、宮廷の厩や騎兵の事を総覧し、多くの禁軍将軍と結び、内廷にも出入りしていました。急速に力をつけた高力士達宦官も彼には威圧されてきました。そこで力士達は玄宗に、毛仲が将軍達と朋党を組み武力を握っている危険性や、その傲慢さを誣告し、玄宗の猜疑心をあおり失脚させ殺しました。禁軍の将軍達も排斥されましたが必要なのでやがて戻されていきました。内廷は宦官達[特に高力士]の独占する場所になりました。

正月、吐蕃使者稱公主求《毛詩》、《春秋》、《禮記》。
七月癸丑,吐蕃請和。
形勢が悪く、反撃態勢が整っていない吐蕃はしきりに和[交渉]を求めました。

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