唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

武德九年 西暦626

2020-05-09 10:00:46 | Weblog
武德九年 西暦626
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七月壬辰,配下の高士廉,房玄齡を宰相に,長孫無忌,杜如晦を要職に登用した。

八月甲子,即皇帝位於東宮顯德殿。
世民[太宗]は高祖を退位させて押し込めた。

八月癸未,突厥寇便橋。乙酉,及突厥頡利盟於便橋。
当時は突厥帝国は全盛で、弱体な唐朝は朝貢し臣従していた。太宗が可汗の承認を得ない簒奪行為を行ったため頡利が問責のため侵攻してきた。
戦力的にも名聞的にも対抗できない太宗は、重臣と共に京師を出て頡利可汗に謝罪し、朝貢を申し出て赦された。正史では勇敢な太宗が可汗を責めたなとの妄言を記しているが、太宗自身が恥辱と感じていることは後に記されている。

九月、突厥頡利獻馬三千匹,羊萬口;上不受。
これが朝貢の記事である。形式的な馬羊に対して支払いをしたわけである。

十月癸亥,立中山郡王承乾為皇太子。
長子承乾を太子としまだまだ不安定な基盤固めをした。

十月癸酉,裴寂等44人に食實封を与えた。
唐朝では、[例 宋國公食邑三千戸]のような封爵を与えるが、三千戸は虚構であり格式でしかない。實封と書かれているものが実収である。その場合も実際の封地が与えられるのではなく、その分の給与が与えられるだけである。また實封は本人に与えられるわけで、そのまま子孫に継承されるわけではない[消滅したり、半減したりする]。
太宗の元家臣を中心に大盤振る舞いをして功績を賞し、不満を解消させたのである。

十月庚辰,宰相蕭瑀、陳叔達罷。
高祖時代の宰相達が太宗の前で激しく論争した。太宗は煙たい老臣を排除する口実を得た。

十一月庚寅,降宗室郡王非有功者爵為縣公。
唐朝は建国以来、多くの親族もすべて郡王等に封じていた。そのためあまりに郡王等が増殖したため、功績のある者以外を格下げした。これは親族の整理と、前記の實封配布の経費捻出の意味を持つ。

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