唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

聖曆元年~長安元年 西暦698~701年

2020-06-01 10:00:39 | Weblog
聖曆元年 西暦698年
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三月己巳,召廬陵王于房州。戊子,廬陵王至自房州。
外寇に対する敗戦が続き、女系である則天と、功績を上げられない武氏一族の無能に批判が高まり、
男系である廬陵王[中宗]の皇太子復帰論が生じてきました。寵臣張易之等はそれを提唱して功績を上げようとして則天に勧めました。

六月甲午,命淮陽王武延秀下突厥,納默啜女為妃。
突厥默啜可汗は和約の条件として通婚を求めてきましたので、武承嗣の子延秀を送り、默啜の娘と娶すことにしましたが、默啜は唐朝の皇族である李氏の子でないとして拒絶しました。突厥も女系は受け入れなかったわけです。そして突厥は河北へ侵攻してきました。

八月、魏宣王武承嗣,恨不得為太子,意怏怏,戊戌,病薨。

八月突厥寇蔚州。陥定州。
九月突厥陥趙州,寇相州。
突厥は河北深く侵入し、周軍は総崩れで敗北を重ねました。

九月壬申,立廬陵王顯為皇太子,為河北道行軍元帥,以擊突厥。
則天は堪らず廬陵王を皇太子に復し、元帥として突厥を討たせました。実質は宰相狄仁傑が出陣し、崩壊した河北の再建にあたらせました。突厥は資財と多数の捕虜を獲得し一旦引き上げました。


聖暦二年 西暦699年
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正月辛亥,賜皇太子姓武氏,大赦。
後継は李氏皇太子[中宗]になりそうです。せめて武氏に変えておかないと「周帝国」は続きません。

二月、吐蕃で内乱が起こり勇将論欽陵一族が滅ぼされます。
欽陵の与党が歸附してきました。これにより周朝は対契丹に引き続いて息をつくことが出来ました。

四月壬辰,魏元忠檢校並州大都督府長史、天兵軍大總管,婁師德副之,以備突厥。
辛丑,婁師德為隴右諸軍大使。
対突厥・吐蕃防衛体制を整備します。師德は有能ですが、あくまで防衛という意味でです。

聖暦三年/久視元年 西暦700年
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則天も老化し、寵臣の美少年張昌宗達や、気に入りの宰相狄仁傑・魏元忠・姚元之の進言に従うようになります。

閏七月丁酉,吐蕃寇涼州,隴右諸軍州大使唐休璟敗之于洪源穀。
吐蕃軍も内訌の後で弱体化しています。

大足/長安元年 西暦701年
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三月丙申,流張錫於循州。
則天も老化し宰相の処罰も少なくなり、また処置も生ぬるくなりました。

八月突厥默啜寇邊,命安北大都護相王為天兵道元帥,統諸軍擊之,未行而虜退。
突厥も衰退し生ぬるい侵攻が多くなってきました。

九月壬申,殺邵王重潤及永泰郡主、主婿武延基。
重潤も郡主も皇太子[中宗]の子、延基は承嗣の子です。特に重潤は韋氏のただ独りの男子でした。則天が寵臣張昌宗の誣告に乗って誅殺したのです。苦労知らずの重潤等が則天を批判したことを聞きつけた昌宗派が皇太子・韋氏と武氏に打撃を与えようとしたのです。則天は自分に対する批判は肉親・一族といえど赦しませんでした。


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