唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大同節度使 雁門節度使 代北節度使 その2

2012-09-26 11:59:01 | Weblog
・國昌・克用は征討されたが、沙陀の武力は強く、敗戦により疲弊した河東・昭義節度使には軍乱が続いた。
南からの黄巣の侵攻と北の沙陀の叛乱により唐朝は混乱した。
・廣明元年七月[880年]幽州李可擧は藥兒嶺で沙陀を大破し、國昌親子は達靼へ逃亡し乱は治まったが、
12月京師は黄巣によって陥落した。
・京師回復をねらう都統王鐸等は黄巣の拠る京師を包囲したが、地域戦では敗北を重ねていた。そして強い
打撃力を求めて沙陀等の蕃族を導入したが統率することができなかった。
・そのため中和元年[881年]國昌・克用父子を赦したが、河東節度との紛争が続いた。
・中和2年忻代二州に拠る克用を雁門節度使とし、京師回復を命じた。方鎭表では「更新大同節度使為鴈門
節度領左神策軍天寧鎭遏観察使徒治代州」である。
・中和3年克用は南下して黄巣を追いはらい京師を回復した。その功績により7月河東節度使を与えられ、
8月國昌は鴈門節度使を改称した代北節度使を与えられた。
・光啓3年2月[887年] 國昌は卒し、領域は河東克用の支配下に併合された。
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