唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

玄宗後記

2020-08-06 10:00:47 | Weblog
玄宗後記
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至徳元年十一月甲寅,憲部尚書李麟同中書門下平章事。
他の宰相は肅宗のもとに送り、玄宗用の宰相として麟が用いられました。

至德二載[757年]正月甲子,劍南健兒賈秀等五千人謀反反,伏誅。
七月庚戌,行營健兒李季反,伏誅。庚午,劍南健兒郭千仞反,伏誅。
玄宗が引率してきた親軍と劍南現地軍の待遇の差への不満と、遠隔地の遠征に動員されることによる反乱です。

成都時代の玄宗についてはほとんど情報はありません。肅宗の政治に口出ししたようにも見えません。

五月,誥追冊貴嬪楊氏為皇后。
楊貴妃への想いは続いていたようです。

十月丁巳,皇帝復京師,以聞。
十二月丁未,至自蜀郡,居於興慶宮。
正式の譲位なく自立したわけですので、肅宗にとって玄宗の還りを待つというのは微妙なものでした。そこで咸陽において肅宗が位を返上し、玄宗が辞するという猿芝居が必要になりました。玄宗はバカではありませんので事態を理解して行動しました。
玄宗は興慶宮[南内]に入り、反者の処罰以外の政務には関与しませんでした。

還京以来、側近の高力士、陳玄禮、玉真公主等と教養人らしく遊び暮らしていました。京師の庶民達にも人気はあったようです。

肅宗側近の李輔國は功績があるにも関わらず玄宗の元では軽んぜられていて不満がありました。小心な肅宗も父の存在は煙たく、脅威を感じることもあったようです。

上元元年[760年]七月丁未,正史では輔國は独断で肅宗の病に乗じて兵をもって玄宗を西内に幽閉しました。
実際は肅宗の意向をうけて輔國が汚れ役を引き受けたのでしょう。孝道から言えば許されない暴挙です。高力士等は流され、玄禮は致仕させられました。玄宗は鬱々として元気なくすごしています。

元年[762年]建巳月,崩于神龍殿,年七十八。
玄宗崩御、同月丁卯,肅宗もまた崩御しました。

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