唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

天寶十五載/至德元年 その2  西暦756年

2020-08-05 10:00:39 | Weblog
天寶十五載/至德元年 その2  西暦756年
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六月丙戌,哥舒翰及安祿山戰於靈寶西原,敗績。
辛卯蕃將火拔歸仁執哥舒翰叛降于安祿山,遂陷潼關、上洛郡。
兵事を知らない玄宗や楊國忠は、河南が荒らされ山東が危機に瀕しているのを憂慮し、数だけは揃っている潼関の哥舒翰に強制して東都へ進軍させます。訓練のできていない大軍を要塞から出すことは危険だと翰はわかっていましたが、病身で気力がないのと、高仙芝等の誅殺の前例を懼れて、渋渋出撃しました。指揮は政治的将軍王思禮[戦闘で勝ったことがない]が執っています。雑軍が要塞を出れば安禄山軍にかなうはずもなく潰滅します。主将である翰が捕らえられる完敗です。潼関・武関[商州]が陥落し、京師は風前の灯火です。

是日,郭子儀、李光弼及史思明戰於嘉山,敗之。
朔方軍は禄山軍を大破しました。背面軍が敗れ、潼関が堅守していれば安禄山は東都を棄てて幽州に敗走するしかなかったでしょう。

六月甲午,詔親征。京兆尹崔光遠為西京留守、招討處置使。
「親征」と言う名の逃亡です。本来の京兆尹魏方進は玄宗とともに逃亡し、少尹の光遠が損な役回りを押しつけられました。禄山軍の侵攻と京師の民乱に兵力もなく対処しなければなりません。

六月丁酉,次馬嵬,陳玄禮殺楊國忠及御史大夫魏方進、太常卿楊暄。賜貴妃楊氏死。
敗走ですから、なんの準備もできていません。地方官は逃げ散り、宿舎どころか食事にもことかく状況です。日頃は優遇されている親衛兵の不満は爆発し、責任者である国忠・方進等を殺害しました。玄禮が乱を起こしたわけではなく、部下が勝手にやったことです。そして乱兵は玄宗に楊貴妃を処分することを迫りました[楊一族を殺害したのですから、貴妃の反撃を懼れたのです]。玄宗はためらいましたが、最終的には自分の身がかわいいので、高力士に殺させました。そこで兵士達は敗走を続けることに一応同意しました。

そのころ行軍の背後にいた皇太子一行は、土地の父老達に「我々を見捨てていくのか」と遮られ立ち往生していました。無気力になった玄宗は「太子は好きなようにすればよい」と言い捨てて逃亡をつづけました。太子の子達や宦官李輔國は、北へ向かい關内で残存する朔方軍を頼ることを進言し、太子を従わせます。

六月己亥,祿山兵陷京師。
孫孝哲が侵攻してきただけで戦いがあったわけではありません。張通儒を西京留守とし、実務は崔光遠を京兆尹に起用して鎭撫ざせました。

六月辛丑,次陳倉。
従う宰相は無能な韋見素だけという状況で、まったく軍の規律を保つことができません。そこで「成都へ向かい再興を図る。兵達の家族は京師にいるので、帰りたい者は帰って良い」と開き直った布告を
しました。結果的に帰る者はほとんどなく、兵達の覚悟も定まり成都へ向かうことになりました。

丙午,次河池郡。
劍南節度使崔圓[楊國忠の部下]が大量の物資を携えて出迎え。劍南地方は豊かで兵糧も完備していると上奏しました。喜んだ玄宗は圓を宰相に任じました。

七月甲子,次普安郡。憲部侍郎房琯為文部尚書、同中書門下平章事。
冷遇されていた琯は反する事なく追いつきました。揃っていない宰相陣に補任しました。

七月丁卯,皇太子為天下兵馬元帥都統朔方河東河北平盧節度使
永王璘為山東路黔中江西節度使,盛王琦為江東淮南節度使,豐王珙為河西隴右安西北庭節度使。
太子の独自行動を追認し公式権限を与えましたが、実際は自分でどうにかしろということです。
あとの王達は付け足しです。

庚午,次巴西郡。以太守崔渙為門下侍郎同中書門下平章事,韋見素為左相。
庚辰,次蜀郡。
やっと成都にたどりつきます。兵士達も十分な給養を受け再編成されました。

八月癸巳,皇太子即皇帝位於靈武,以聞。
庚子,上皇天帝誥遣韋見素、房琯、崔渙奉皇帝冊于靈武。
皇太子が靈武で自立したことがつたわってきました。貴妃を失いすっかり気力がなくなっていた玄宗は、自立を怒ることなく、太子の即位を追認し、宰相達も太子に合流させました。

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