唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

西川 劉闢の乱

2023-01-15 08:19:26 | Weblog
韋皐は奉天の乱後劍南西川節度使となり、永貞元年に卒するまで20年間西川を統治しました。軍備を強化し南詔と同盟して、吐蕃を何度も大破してその脅威を除きました。領内に重税を課し、麾下の官僚や軍人の待遇を良くし、幕僚達と朝廷との交流を行わず半独立国の状態に置きました。姑息な德宗皇帝はその功績を評価して放置していました。

永貞元年6月
韋皐は重病となり、麾下の劍南支度副使劉闢は京師に至り、当時の権力者王叔文に贈賄して後任となろうとしましたが峻拒されました。

永貞元年八月
韋皐は卒しました。行軍司馬劉闢は自立しました。

憲宗皇帝が即位したばかりであり朝廷は、宰相中書侍郎平章事袁滋為劍南東西兩川山南西道安撫大使を送り慰撫しました。

永貞元年10月
宰相劍南安撫使袁滋を劍南西川節度觀察等使とし、西川行軍司馬劉闢を給事中としました。給事中は高官ではありませんが文官としての出世コースですが、闢が受けるとは思えません。

滋は到底無理だと判断し赴任しません。朝廷は滋を吉州刺史に左遷しました。

永貞元年12月
征討を避けたい朝廷は、劉闢を劍南西川節度使とし、右諫議大夫韋丹を劍南東川節度使としました。

元和元年正月
増長した劉闢は西川のみならず、東川も併領しようとして梓州を攻め節度使李康を捕らえました。
そして同僚の盧文若を東川節度使としました。

激怒した憲宗皇帝は宰相杜黄裳の提案に従い闢を伐つことに決め、長武城使高崇文を左神策行營節度使とし、左右神策京西行營兵馬使李元奕、山西節度使嚴礪、東川節度使李康を率いさせました。

当時の名将とされていた劉澭や范希朝ではなく、高崇文の任用は意外とされました。
崇文は政治性の無い生粋の軍人で、常に対吐蕃防衛に備えていましたので、勅令が降ると直ちに全軍を率い出陣しました。

元和元年2月
先鋒の嚴礪は劍州を陥し、刺史文德昭を斬りました。

元和元年3月
嚴礪・高崇文は梓州を回収しました。闢は唐軍の速い進撃に驚き東川を捨てました。李康は解放されましたが誅されたとも左遷されたとも不明です。

闢の官爵が削られました。

新任の東川節度使韋丹は「出兵してきた高崇文軍は本拠地がありません。崇文に東川を与えれば士心は安定するでしょう」と上奏し認められました。丹は晉絳観察使に移ります。

元和元年5月
闢は鹿頭關に防衛戦を置き、崇文軍を防ぎました。

元和元年6月
崇文は鹿頭關・漢州徳陽に闢軍を破り、漢州を陥しました。

礪軍も闢軍を石碑谷に破りました。

元和元年7月
崇文は闢軍を梓州玄武に破りました。

元和元年9月
礪軍は闢軍を神泉に破りました。

崇文は闢軍を鹿頭關に破り、將李文悅、仇良輔は降りました。

成都を陥し、吐蕃に逃亡しようとした闢を捕ら、盧文若は自殺しました。

元和元年10月
功績により東川高崇文が西川節度使となり、山西嚴礪が東川節度使となりました。山西は嚴震-嚴礪が長期間在鎮していましたがこの機会に移動させることができました。


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