・安史の乱に際して、至徳元年[756年]に州を使府として・密・登・來四州で「密節度使」が置かれた。
初代の節度使は文官の景山である。しかし乱の進行により混乱し、改廃や交替が相次いだ。
・朝鮮に近い安東都護府に置かれていた「平盧軍節度使」は安禄山の反乱に同調せず唐朝方ではあったが、孤立
し、寶應年間[762年]には契丹等の圧迫に耐えきれず全軍が家族とともに侯希逸に率いられて山東半島に移動してきた。
・山東半島には既に平盧軍の兵力が入っており董泰[李忠臣]や淄沂節度使田神功が活躍していた。
・唐朝は侯希逸らを密節度使として遇することとし、田神功の淄沂節度使をも併せて「淄青平盧節度使」となった。
領州は淄・青・登・來・密・齊州である。
・平盧軍は旧高句麗の遺民も含む渤海・朝鮮系の色彩が強い。
初代の節度使は文官の景山である。しかし乱の進行により混乱し、改廃や交替が相次いだ。
・朝鮮に近い安東都護府に置かれていた「平盧軍節度使」は安禄山の反乱に同調せず唐朝方ではあったが、孤立
し、寶應年間[762年]には契丹等の圧迫に耐えきれず全軍が家族とともに侯希逸に率いられて山東半島に移動してきた。
・山東半島には既に平盧軍の兵力が入っており董泰[李忠臣]や淄沂節度使田神功が活躍していた。
・唐朝は侯希逸らを密節度使として遇することとし、田神功の淄沂節度使をも併せて「淄青平盧節度使」となった。
領州は淄・青・登・來・密・齊州である。
・平盧軍は旧高句麗の遺民も含む渤海・朝鮮系の色彩が強い。
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