・淄青平盧節度使侯希逸は事態が安定すると遊猟や造寺にかまけて軍事を省みなくなった。
永泰元年[765年]兵馬使李懷玉[高麗人]はこれを逐い自立した。
弱体の唐朝は認めざるをえず、渤海・新羅との外交権まで与えて慰留した。
・李懷玉は正己の名を与えられ優遇されたが、河北の三鎭とも連携して自立する傾向を強めた。
・大暦10年[775年]魏博田承嗣の反乱の討伐に協力し、その後同じ平盧軍系の汴宋節度使[田神功の後]
の軍乱の鎮定により鄆・曹・濮・徐・兗の五州を管轄下に加えて巨大藩鎭となった。
正己は子の李納を州に置き、鄆州を使府としたが唐朝はそれを認めなかった。
永泰元年[765年]兵馬使李懷玉[高麗人]はこれを逐い自立した。
弱体の唐朝は認めざるをえず、渤海・新羅との外交権まで与えて慰留した。
・李懷玉は正己の名を与えられ優遇されたが、河北の三鎭とも連携して自立する傾向を強めた。
・大暦10年[775年]魏博田承嗣の反乱の討伐に協力し、その後同じ平盧軍系の汴宋節度使[田神功の後]
の軍乱の鎮定により鄆・曹・濮・徐・兗の五州を管轄下に加えて巨大藩鎭となった。
正己は子の李納を州に置き、鄆州を使府としたが唐朝はそれを認めなかった。
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