韓建は、正月昭宗の親衛軍を解体させ、側近を逐い、八月諸王を殺害するなど実権を奪っていった。
李茂貞討伐は形式上続いたが、建と茂貞のなれ合いであった。
朱全忠は正月天平朱瑄を殺し、二月泰寧朱瑾を逐い、山東に大きな勢力を確立した。
朱瑾は李克用の援兵[騎將李承嗣]とともに淮南の楊行密のもとに逃げた。淮南軍は騎兵が不足していたためこれを歓迎した。
八月克用から幽州節度使に任じられていた劉仁恭が自立し、討伐にきた克用を破り独立することになった。
十一月全忠は行密を伐つため龐師古を將として大軍を南下させたが、朱瑾を將とする淮南軍に迎撃され大敗を喫した。
師古は戦死し、軍の大半は潰滅し、以降は淮南へ手出しができなくなった。
李茂貞討伐は形式上続いたが、建と茂貞のなれ合いであった。
朱全忠は正月天平朱瑄を殺し、二月泰寧朱瑾を逐い、山東に大きな勢力を確立した。
朱瑾は李克用の援兵[騎將李承嗣]とともに淮南の楊行密のもとに逃げた。淮南軍は騎兵が不足していたためこれを歓迎した。
八月克用から幽州節度使に任じられていた劉仁恭が自立し、討伐にきた克用を破り独立することになった。
十一月全忠は行密を伐つため龐師古を將として大軍を南下させたが、朱瑾を將とする淮南軍に迎撃され大敗を喫した。
師古は戦死し、軍の大半は潰滅し、以降は淮南へ手出しができなくなった。
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