唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

建中元年 西暦780年 

2020-03-03 10:00:25 | Weblog
正月丁卯,「建中」に改元。
 即位の翌年改元するのは慣例である。

四月乙未,四鎮北庭行軍別駕劉文喜反於涇州,伏誅。
 宰相楊炎は原州城を再築して吐蕃防衛に備えようとして、朔方李懷光に涇原
 節度を兼任させた。いままで老齢の郭子儀の鷹揚さに諸将は甘えていたが、
 懷光は軍令厳正で粛清を重ねていた。懼れた諸将は帥に柔軟な段秀實を
 求めて乱した。姑息な唐朝はあわてて朱泚に交代させたが、文喜等は吐蕃
 に通じて従わなかった。そのため唐朝は泚・懷光に命じて討たせた。
 吐蕃は前年の敗戦と、德宗が抑留した使節を解放したことにより支援を拒
 否した。支援が得られないため意気阻喪した諸将は、文喜を殺して降った。

六月甲午,崔祐甫薨。
 信任が厚かった祐甫だが、多病であり、炎が専権していた。

七月丙寅,邵州賊帥王國良降。
 蠻族出身の豪族國良は湖南軍將であったが、以前の貪婪な觀察使辛京杲が
 その財産を奪おうとして処罰してきたことに反発して乱していた。その勢力
 は強くなかなか鎮圧できなかったが、新観察使嗣曹王皋は自ら本拠地を訪れ
 國良の赦免を伝えて帰服させた。國良は「惟新」と賜名され湖南將に戻った。

七月己丑,殺忠州刺史劉晏。
 楊炎は、財務能力に長けた劉晏が宰相となることを懼れて讒言し殺させた。

八月甲午,振武留後張光晟殺回紇使者突董等九百餘人。
 回紇は安史の乱で唐朝を援助した功績があり優遇され、その使者は横暴を極
 め軍民を苦しめていた。光晟が懲罰したわけである。当然回紇は憤激し緊張
 関係となった。德宗は回紇が嫌いであったので、光晟を罰せず金吾将軍に転
 じさせた。
 
九月己卯,睦王述為奉迎皇太后使。
 德宗の母沈氏は、安史の乱に行方不明となっていたが、見つかったというこ
 とで迎えを出した。しかし結果的には偽物であり、沈氏は見つからなかった。
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