唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十年 西暦 815 和暦 弘仁6年

2020-02-11 18:41:44 | Weblog
二月甲辰,征討使嚴綬は淮西軍に磁丘で大敗した。
 相変わらず唐朝軍は弱く、綬は將才が無かった。大敗であり淮西軍は東都
 周辺まで侵掠した。

三月庚子,忠武軍節度使李光顏が吳元濟軍を臨潁等で破った。
 要は光顏が奮戦して侵攻軍を撃退したという程度である。

六月癸卯,強硬派の宰相武元衡が京師で入朝時に賊に襲われ殺害された。
 李師道や王承宗などが派遣した暗殺団が、強硬派の元衡や
 裴度を、入朝時に襲撃し元衡の殺害に成功した。京師は震駭したが、
 真犯人を捕まえることもできなかった。

乙丑,憲宗は強硬派の裴度を宰相とした。
 激怒した憲宗皇帝はあくまで成德征討を貫くことを示すため、
 負傷した強硬派の裴度を元衡の後任に登用した。

七月甲戌,武元衡殺害の犯人は王承宗とされ征討されることになった。
 真犯人は李師道の配下ではあったが、憲宗は承宗配下と思い込んだ。

丁未,淄青李師道の將訾嘉珍が東都で蜂起したが鎮圧された。
 東都の兵備が虚弱なことを知った師道は、乱を起こし唐朝を恫喝
 しようとした。なんとか鎮圧はでき、淄青李師道も討伐の対象と
 なった。

九月癸酉,宣武韓弘が淮酉行營兵馬都統となった。
 弘は敗北した嚴綬に代わり征討使となったが、消極的であった。

十一月壬申,李光顏、烏重胤が淮西軍を破った。
 侵攻してきた淮西軍を撃退した程度のものである。

十二月甲辰,武寧將王智興が淄青軍を平陰に破った。
 淄青李師道が徐州に侵攻したのを撃退。もちろんたいした勝利
 ではない。撃退程度である。