五月崔元式が解任。周墀と馬植が宰相に[新唐書.通鑑]。
旧唐書では三月墀と植が就任、元式は記載なし。
五月己卯,太皇太后郭氏が崩御。
宣宗は郭氏が憲宗暗殺に与していると考え冷遇し、これを不満とした投身自殺と
言われる。宣宗は自分の母鄭氏が郭氏と不仲でもあったので外苑に葬しようとし、
禮官に反対されたが強行した。
十一月宰相韋琮が解任。
十一月庚午,萬壽公主[宣宗の娘]が起居郎鄭顥に降嫁した。
顥には既に愛妻がいたが、白敏中は名門の秀才に娘を嫁がせたい宣宗の意向を受
けて降嫁させた。当時、貴族の子弟でも才のある者は、制約の多い公主の降嫁を
望まなかった。顥は敏中を激しく恨んだ。
三年二月,吐蕃の秦原安樂三州と石門驛藏木峽制勝六磐石峽蕭七關が唐朝に帰属した。
吐蕃は大将論恐熱と,鄯州節度使尚婢婢が争い内乱状態となっていて、統治不全
となり、そのため現地豪族は唐朝に帰属しようとした。宣宗は父憲宗の念願であっ
た隴右回復が実現し感激した。
三月,宰相馬植が罷免された。[旧唐書は四月、通鑑は四年四月]
植は宦官中尉馬元贄と同姓の誼で昵懇となり、元贄が宣宗より賜った寶帶を譲り
受けていた。宣宗はそれを知り、宰相と宦官の結託を嫌い解任した。
四月乙酉,宰相周墀が解任された。
崔鉉と魏扶[唐初の名相魏徴の末]が宰相となった。
墀は正論を唱え直言して避けられた。
學士鄭顥は「帝は直言を求めるが、されると避けるのですか」と諫めた。
四月癸巳,幽州盧龍軍節度使張仲武が卒し、子の直方が継承した。
仲武は唐朝に協調していたし、唐朝には幽州節度に干渉する意図はなかった。
五月。武寧軍亂,節度使李廓を逐う。
悪名の高い徐州武寧軍の牙軍の乱である。彼らは徒党を組み、気に入らない
節度使が来ると乱を起こし逐った。相当な政治力を持つ者でないと武寧節度
使は務まらなかった。
十月吐蕃の維州[西川]が、十二月,扶州[山西]が唐朝に帰属した。
失われていた領域が吐蕃の内乱による弱体化により帰属してきた。
十一月幽州軍亂,逐留後張直方,衙將周綝が自立した。
常に外敵と臨戦状態にある幽州では若輩では継承できなかったようである。
旧唐書では三月墀と植が就任、元式は記載なし。
五月己卯,太皇太后郭氏が崩御。
宣宗は郭氏が憲宗暗殺に与していると考え冷遇し、これを不満とした投身自殺と
言われる。宣宗は自分の母鄭氏が郭氏と不仲でもあったので外苑に葬しようとし、
禮官に反対されたが強行した。
十一月宰相韋琮が解任。
十一月庚午,萬壽公主[宣宗の娘]が起居郎鄭顥に降嫁した。
顥には既に愛妻がいたが、白敏中は名門の秀才に娘を嫁がせたい宣宗の意向を受
けて降嫁させた。当時、貴族の子弟でも才のある者は、制約の多い公主の降嫁を
望まなかった。顥は敏中を激しく恨んだ。
三年二月,吐蕃の秦原安樂三州と石門驛藏木峽制勝六磐石峽蕭七關が唐朝に帰属した。
吐蕃は大将論恐熱と,鄯州節度使尚婢婢が争い内乱状態となっていて、統治不全
となり、そのため現地豪族は唐朝に帰属しようとした。宣宗は父憲宗の念願であっ
た隴右回復が実現し感激した。
三月,宰相馬植が罷免された。[旧唐書は四月、通鑑は四年四月]
植は宦官中尉馬元贄と同姓の誼で昵懇となり、元贄が宣宗より賜った寶帶を譲り
受けていた。宣宗はそれを知り、宰相と宦官の結託を嫌い解任した。
四月乙酉,宰相周墀が解任された。
崔鉉と魏扶[唐初の名相魏徴の末]が宰相となった。
墀は正論を唱え直言して避けられた。
學士鄭顥は「帝は直言を求めるが、されると避けるのですか」と諫めた。
四月癸巳,幽州盧龍軍節度使張仲武が卒し、子の直方が継承した。
仲武は唐朝に協調していたし、唐朝には幽州節度に干渉する意図はなかった。
五月。武寧軍亂,節度使李廓を逐う。
悪名の高い徐州武寧軍の牙軍の乱である。彼らは徒党を組み、気に入らない
節度使が来ると乱を起こし逐った。相当な政治力を持つ者でないと武寧節度
使は務まらなかった。
十月吐蕃の維州[西川]が、十二月,扶州[山西]が唐朝に帰属した。
失われていた領域が吐蕃の内乱による弱体化により帰属してきた。
十一月幽州軍亂,逐留後張直方,衙將周綝が自立した。
常に外敵と臨戦状態にある幽州では若輩では継承できなかったようである。