唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和五年 西暦 810 和暦 大同5年 1

2020-02-05 10:00:03 | Weblog
正月、幽州節度劉濟は自ら王承宗軍を討ち、深州饒陽、束鹿県を抜いた。
 河東、河中、振武、義武の四軍は定州に集合し成德へ侵攻しようとしていた。

丁卯,河東將王榮は洄湟鎮を抜く。
 征討が成功しているようだが、実情は宦官吐突承璀は統帥力がなく、敗戦が続き、
 実戦の大将である酈定進が敗死する状況であつた。

三月己未,以吳少陽を淮西留後とした。
 成徳征討が進まないので、二正面となる淮西征討は困難であったため。

昭義節度使盧従史は、成徳征討を主唱したにもかかわらず、承宗に通じていて
はかばかしい攻撃をしなかった。そのため承宗軍には余裕があった。怒った憲宗
は従史を解任し捕らえて京師に送らせた。

四月丁亥,河東范希朝、義武張茂昭軍は承宗軍を木刀溝に大破した。
 実情は、勝利はしたのだろうが大勢に影響なしである。

五月乙巳,従史の党である昭義軍三千餘人が魏州に逃亡した。
 征討どころではなく、ボロボロである。

幽州劉濟が深州安平県を抜いた。
 濟だけが着々と戦果を上げている。

七月庚子,王承宗が遣使して盧從史に全責任を押しつけて、表面上は謝罪した。
 淄青李師道なども取りなし、征討軍は敗北し、昭義軍は動揺しているので、
 宰相達は妥協を求めた。憲宗も含め強硬派は後退するしかなかった。

丁未,承宗を赦し、成德軍節度使とし、德棣二州も帰属させた。
 唐朝の完敗である。承宗は捕らえていた薛昌朝を釈放する条件だけであった。
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