唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

藩鎭軍乱11 徐州兵乱 ?

2017-09-18 13:03:56 | Weblog
大暦9年2月
[新]二月辛未,徐州兵亂,逐其刺史梁乘。
[旧]なし
[通]辛未,徐州軍亂,刺史梁乘逾城走。

[背景]汴州は旧平盧軍系の河南節度使の領州である。正月節度使田神功が京師で卒し、弟神玉が継承したが、その間隙をついて不満勢力が刺史を逐ったようである。

[結果]続報はなにもない。留後田神玉が慰撫して修めたのであろう。
同じく、河南軍の防秋者[対吐蕃防衛]千五百人が庫財を掠奪し勝手に帰郷することが起こっている、神功の威權がなくなったためであろう。
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藩鎭軍乱10 嶺南軍乱 哥舒晃自立

2017-09-18 12:45:01 | Weblog
大暦8年9月
[新]壬午,循州刺史哥舒晃反,殺嶺南節度使呂崇賁。
[旧]壬午,嶺南節度使、廣州刺史呂崇賁為部將哥舒晃所殺。
[通]壬午,循州刺史哥舒晃殺嶺南節度史呂崇賁,據嶺南反。

[背景]呂崇賁は安史の乱にも見られる文官。哥舒晃は武将出身であり、湖南崔灌の例と同じく驕軍かと考えられる。しかし蠻族を巻き込み反乱は大規模化していった。唐朝にとって嶺南廣州は南蛮貿易の拠点で、大きな収益を上げる地域であるので、姑息な代宗皇帝といえども放置できなかった。

[結果]近隣の武断派の江西観察使路嗣恭に嶺南節度使を兼任させて討伐させたが、多数の蠻族が合流し勢力が強大であるのと風土の問題もありなかなか進展しなかった。嗣恭は嶺南に流罪となっていた孟瑤、敬冕などの軍人を起用し、10年11月に大虐殺して討伐に成功した。その際に莫大な財宝を掠奪したが唐朝には納めなかった。代宗皇帝はそれが不満で功績を認めなかったが宰相に諫められてしぶしぶ兵部尚書に任用した。
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