唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

藩鎭の軍乱3 華州の反乱 周智光の乱

2017-09-05 20:07:56 | Weblog
大暦元年12月
[旧]癸卯,同華節度使周智光專殺陝州監軍張志斌、前虢州刺史龐充,據華州謀叛。
[新]癸卯,周智光反,殺虢州刺史龐充。
[通]癸卯,周智光殺陝州監軍張志斌。智光素與陝州刺史皇甫温不協,志斌入奏事,智光館之,志斌責其部下不肅,智光怒曰:「僕固懷恩不反,正由汝輩激之。我亦不反,今日為汝反矣!」叱下斬之,臠食其肉。朝士舉選人,畏智光之暴,多自同州竊過,智光遣將將兵邀之于路,死者甚衆。戊申,詔加智光檢校左僕射,遣中使余元仙持告身授之。智光慢罵曰:「智光有大功于天下國家,不與平章事而與僕射!且同、華地狹,不足展材,若益以陝、虢、商、鄜、坊五州,庶猶可耳。」因歷數大臣過失,且曰:「此去長安百八十裡,智光夜眠不敢舒足,恐踏破長安城,至于挾天子令諸侯,惟周智光能之。」元仙股栗。郭子儀屢請討智光,上不許。

[背景]宦官魚朝恩の麾下であった神策将周智光は吐蕃との戦いで軍功をあげて東都と京師・河中の中間点である同華節度使に任ぜられました。彼は勇敢ですが極めて傲慢専横な人物で、同輩の杜冕をねらい家族を殺害したり、皇甫温麾下の監軍を殺したり横暴を極めます。弱体な唐朝はこれをひたすら慰撫しますが、増長させるだけでした。

[結果]さすがに優柔不断な代宗皇帝も決断し、河中に大軍団を率いる郭子儀に討伐を命じます。これすらも密使を送らねばならない体たらくでした。郭子儀が討伐するという噂が伝わると、周智光麾下の諸将は動揺し、同州はただちに降り、華州では智光一族を殺害して降ります。そこへ淮西節度使李忠臣が来襲し華州一帯を寇掠する事態となりますが、一応鎮圧ということになりました。同華節度使は廃止され、華州の潼関に防禦兵を置くことになります。
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