大暦3年5月~7月
[旧]戊辰,以劍南西川節度使崔旰檢校工部尚書,改名寧。寧為柏茂林、楊子琳所攻,寧既入朝,子琳乘虛襲據成都府。朝廷憂之,即日詔寧還成都。
7月壬申,崔寧弟寬攻破楊子琳,收復成都府。
[新]壬申,濾州刺史楊子琳反,陷成都,劍南節度留後崔寬敗之,克成都。
[通]崔旰之入朝也,以弟寬為留後,瀘州刺史楊子琳帥精騎數千乘虛突入成都;朝廷聞之,加旰檢校工商尚書,賜名寧,遣還鎮。
崔寬與楊子琳戰,數不利,七月崔寧妾任氏出家財數十萬,募兵得數千人,帥以擊子琳,破之;子琳走。
[背景]楊子琳は瀘南の賊帥であったが帰順し劍南の武将となっていた。崔寧が郭英乂を殺すと、伐とうとしたが、杜鴻漸は瀘州刺史に任じて宥めた。ところが崔寧が入朝した留守を窺い成都に突入し、留守の崔寬を逐った。
[結果]唐朝はあわてて崔寧を帰し鎮定させようとした。一旦成都を逐われた崔寬は楊子琳の寡兵をみて奪回に動くが成功せず、寧の妾の支援を得てやっと奪回した。子琳は敗走するが唐朝は荊南節度管内の峽州刺史に任じて慰撫した。しかし楊子琳は瀘州に盤踞して荊南・山東節度の各州を荒したため、澧朗鎭遏使に転じさせ優遇した。さすがに老齢となり、大暦9年入朝し賜名され楊猷となり、洮州刺史を与えられた。これは虚名であり隠棲に入ったと思われる。