唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大和九年(835年.承和二年)

2006-11-10 18:36:17 | Weblog
李訓らの一党は宦官追放をねらう文宗に結びつき、急速に台頭した。
四月には賈餗が、九月には舒元輿と李訓が宰相となり、鄭注は鳳翔節度使となって軍權を確保した。
罪のある宦官は、九月に憲宗を殺した陳弘志、文宗を擁立した王守澄などが殺されていった。
残った宦官を一掃するため、十一月金吾に甘露が降ったという演出が行われ、文宗は仇士良など幹部宦官を視察にいかせて皆殺しにしようと図った。
しかし途中将軍韓約の臆病さから陰謀は暴露し、宦官達は文宗を捕らえ、神策軍を動員して李訓ら五宰相を殺した。
そのため朝廷は一時に空となった。これを甘露の変という。
これ以降宦官達は皇帝を傀儡として専権を振るうことになった。

大和八年(834年.承和元年)

2006-11-10 17:45:13 | Weblog
十月幽州節度使で軍乱が起き、楊志誠は逐われた。志誠は反抗的であったので朝廷はこれを流罪とし密かに殺しみせしめとした。
李宗閔[牛派]が復帰し、李裕は失脚した。
十一月成徳節度使王庭湊が死に、子の元逵が自立した。元逵は父と違い朝廷と争おうとしなかった。
そのころ李訓・鄭注は宦官王守澄の推薦を得て文宗に急速にくい込んで信任を得ていった。