唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

元和十二年(817年.弘仁七年)

2006-11-01 18:38:37 | Weblog
新たに唐節度使となった李愬は、敗北を続け地に墜ちていた軍の志気を立て直すため局地戦で勝利を重ねさせ、自信を回復させていった。
正面では四月~八月に李光顔・鳥重胤が淮西軍を圧迫し攻勢を強めた。
しかし朝廷では長い征討による負担に不満が噴出し、宗時代の姑息な体制に戻ろうとする宰相李逢吉等の勢力が増していった。
そのためついに、七月強硬派の宰相裴度は自ら総帥として淮西征討軍を率いることにした。それにたいして淮西軍は董重質に全軍を与えて裴度に対峙させた。
十月李愬はその隙をついて淮西の本拠蔡州を急襲し陥落させ、ついに約四十年にわたる淮西反乱を鎮定した。

元和十一年(816年.弘仁六年)

2006-11-01 17:55:19 | Weblog
四月忠武軍李光顔・河陽鳥重胤などは淮西軍を破り、凌雲柵を陥し正面戦線では優位にたった。
しかし六月唐節度使高霞寓は鐵城で淮西呉元濟に大敗した。このためまた山東方面の主将を袁滋に代えた。ところが袁滋は臆して戦おうとせず、さらに十二月には李愬[名将晟の子]が唐節度使として赴任した。
河北では幽州劉濟や昭義郗士美らは、成徳王承宗をしばしば破ったが恒例の形式的な勝利であった。かえって年末、義武節度使渾鎬は王承宗に敗北し軍乱を招いた。