唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

大和元年(827年.天長四年)

2006-11-06 19:05:40 | Weblog
文宗は敬宗と違い学問を好み真面目な性格であった。
五月横海李同捷の自立に対して、朝廷は兗海節度使への就任を認めるという融和策をだしたが、同捷は成徳王庭湊と結託し応じなかった。
そこで鳥重胤を主将として討伐することになったが、十一月重胤は亡くなり、後任の李寰もあまり有能とはいえなかった。


宝暦二年(826年.天長三年)

2006-11-06 18:21:28 | Weblog
敬宗の遊芸はますますエスカレートして行き、さすがに宦官達も迷惑に感じるようになってきた。
四月横海節度使李全略が死に、子同捷が自立したが、朝廷は有効な対策を講じられなかった。
五月幽州節度使では軍乱が起き、反朝廷派の朱克融が殺された、九月には親朝廷派の李載義が自立した。
敬宗は狐狩りなどの夜遊びと相撲・ポロ競技に狂い、力士やポロ選手を取り巻きとし、宦官達でも従わない者には容赦のない処罰を加えていた。
十二月若手の宦官劉克明らは敬宗を便所で扼殺し、憲宗の子絳王を擁立しようとした。
しかし幹部宦官の王守澄・梁守謙等はこれを誅して穆宗の子江王を擁立して文宗とした。